春の歌
安倍野晴信
春の歌
その日は夢を見た。さめざめと泣きながら地面に伏せた男の背中に何枚も綺麗な布がかぶさって、小さな女の子が日本刀をかまえてきりもみ回転しながらこちらに飛んできた。吹雪なのに蒸し暑くて、スポットライトを浴びていたのに身体がまったく動かなかった。
目が覚めると部屋は真っ暗で、充電完了を知らせるスマートフォンのランプだけが明るかった。かけっぱなしにしていたラジオのノイズに混じって、腹から恨みがましい唸り声がする。頼む許してくれ、そんなつもりはなかったんだ、ほんの少しの気の迷いだったんだ、いつだって君を一番に思っているんだ信じてくれ。浮気野郎の台詞で自分の臓器に謝ったところで、この家に食料はない。あるとすれば職を失ったその日に勢いで買ったテネシーハニーと、数年前に実家から送られてきた鍋島くらいか。飲酒は滅多にしないし、馬鹿舌にはもったいないと思って棚の奥にしまい込んでいる。ゴミをかき分けて引っ張り出す手間を考えるなら、もう一度寝てしまった方がずっといい。なんなら永遠に眠りたい。
けれど一旦空腹を自覚してしまうと余計に音が大きくなってしまったので、近くに落ちていた黒いパーカーを羽織った。いくらか暗闇に慣れた両目と、カーテンの隙間からわずかに差し込む月明かりを頼りに棚を目指した。棚はほぼベッドに向き合うようにして配置しているのだから、明かりなんかつけなくてもいいと思っていた。大間違いだった。床に放り出していた黒いスーツのジャケットや牛丼の空き容器なんかを踏みつけて何度も転びそうになったし、ローテーブルにがつがつ膝をぶつけた。
倒れ込むようにして棚に寄りかかると、一番下の段についた引き戸を開けて手を突っ込んだ。それほど物を入れていなかったのですぐに瓶を探し当てて引っぱり出すと、ローテーブルに乗っていたゴミを押しのけて、置いてあったグラスを手に取った。いつからそこに置いていたかは忘れた。
そろそろ明かりをつけようかと思ったが、どうせだからとカーテンと窓を開けた。この部屋は大きな川に面していて、ベランダは昼夜問わず生臭い。川というよりドブだ。しかしそのドブ川に沿うようにして桜並木が続いているので、この時期だけは用もないのにやたらとベランダで過ごす事にしている。その場に座り込んで、両足だけをベランダに投げ出した。寒さでぷつぷつと鳥肌が立った足は以前より細くなっていた。
引っぱり出した瓶はテネシーハニーだった。グラスには煤けた金褐色のラインが横に一本入っているので、異国の酒とは中々相性がいいように思えた。封を切ってグラスに満たして、上唇を浸すようにして口に入れた。入れてすぐに、ひりつくような甘さが舌を焼いた。喉がカッと燃えて脳が痺れる。やっぱりやめておけばよかった。アルコールなんか劇物だ。好んで摂取するやつの気が知れない。みんな乗り物酔いは嫌うくせに、これではやたらと酔いたがる。何が違うのか分からない。
無限に湧き出る悪態を丁寧についていたが、背後で未だに流れているノイズにいい加減イラついたので、ラジオを引き寄せてツマミを回した。頭に靄がかかったような感覚が気持ち悪くて、何でもいいからノイズ以外の何かが聞きたかった。
祈りが通じたのか、噛み合うようなひと際大きなノイズの後、軽快なアコースティックギターとドラムの音が流れ出した。少しだけ機嫌がなおった。この曲は好きだ。明るい雰囲気なのにさびしげなボーカルの声が気に入っている。
思えば、この部屋に越してすぐはこればかりを聞いていた気がする。この曲を聞いているといつもより体が柔らかくなったし、台詞もすぐに頭に入った。いつでも新しい発見があって、誰とでも仲良くなれて、毎日が楽しかった。
グラスをもう一度口に運んだ。アルコールなんか大嫌いだが、今だけは自分に必要な気がした。吹き込む風は冷たいが、日を追うごとに角が取れていく。ドブ川の臭いに青い植物の気配が混ざっていく。足首の傷に桜の花びらが絡んでいた。
ゆるやかに浸かるどん底は夜のかたちによく似ている。グラスに満たしたアルコールは欠けた月より色が濃くて重い。これからどうしようか。
春の歌 安倍野晴信 @abeno
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