少女の企み
倒れたら、ダメだ。
今倒れたら立ち上がれない。
張りつめた糸を切ってはいけない。
自らを鼓舞し、立つ足に力を込めようとした。それでも、身体は思うように動かなかった。
アイラスが固く目を閉じた瞬間、空気が強く波打った。
驚いて目を見開き、顔を上げた。
「こ、これって……!?」
心臓の鼓動のように寄せては返す感覚は、以前も感じたことがあった。
強い衝撃がアイラスの四肢を動かした。
動く、と思う余裕もなく、波動の元を探した。最奥の棟から強い魔力を感じた。
——あっちは、旦那様と奥方様の——
甲高い悲鳴で思考が中断された。何かが割れる音も響いてきた。
ザラムがアイラスの手を掴んで走り出した。走りながら、その背中に声をかけた。
「ザ、ザラム……! この、感じ……!?」
返事はなかった。でも本当は、聞かなくてもわかっていた。
——白い悪魔。
忘れ難い気配はどんどん近づいていた。
この王府に魔法使いは居ない。白銀の館は遠い。まず狙われるのは自分達で、近付けば近付く程、ここの人達が襲われる可能性は低くなるはずだ。
そう思って懸命に走った。
「ザラム! 先に、行って! 私と一緒じゃ、遅いから……!」
「……ダメ!」
否定するセリフに被せるように、大きな音が鳴り響いた。足を止めて音のした方を見ると、中庭を挟んだ反対側の棟で壁が崩れていた。
その奥から、見覚えのある白い姿が飛び出してきた。
目の当たりにしても、まだ信じられない気持ちだった。
想定よりずっと早い。目の前に居る恐怖と、もう時が残されていない恐怖が、アイラスの身体を震わせた。
悪魔は白い翼を羽ばたかせ、空に舞い上がった。
ザラムが繋いでいた手を離し、刀の柄を握りしめた。
「斬っちゃダメだヨ! ここの誰かなんだから!」
「翼、落とす。……でも、変」
「エッ?」
「来ない」
その言葉に悪魔を見上げた。上空に居るそれは、自分達には目もくれず、門の方を向いていた。
唐突に思い出した。さっき別れたばかりの少女達を。使い魔であり、魔力を秘めている。それも、かなり強い。
「狐さんを狙ってるんだ! 私は魔力が低いし、ザラムも抑えてるよネ?」
「解放する」
聞き返すより早く、ザラムの口から言霊が繰り出された。
漆黒の髪と目の色が薄くなるに従って、魔力の高まりを感じた。そうして本来の色、純白に戻っていった。
その美しい顔に、挑発するような笑みが浮かんだ。
「来い。お前の餌、ここ」
白い悪魔に目を向けると、今度はこっちを向いていた。認識されている。窪んだ穴のような目が細まったかに見えた。笑っている?
ザラムが再び柄を握りしめた。
「アイラス、下がれ」
言葉に従って、武官のところまで後退りした。
呆けていた彼は、アイラスに気付いて我に返ったようだった。庇うように前に出て腰刀を抜いたけれど、その切っ先が震えているのがわかった。
酷く申し訳ない気持ちになった。
これからの事を考えなくてはならない。みんなの記憶を戻すかどうか、決めきれてはいなかった。でも、もう、迷っている時間はない。
ザラムが難なく翼を斬り落とす様子が、どこか遠くの出来事のように思えた。意識がまとまらず、考えもまとまらなかった。
地に落ちた白い悪魔から、パラパラと羽根が剥がれ落ちた。その奥から現れた華奢な身体は、奥方様のものだった。
「泣くな。生きてる」
わかってる、と言いながら、首を強く横に振った。
わかっている。わかっていても、あんなに優しくしてくれた奥方様を、こんな目に合わせた。その事実が、どうしようもなく辛かった。
ホンジョウが叫びながら奥方様に駆け寄っていた。何を言っているかわからない。わからないけれど、お前のせいだと言われている気がした。
誰かを責めるような人じゃないと知っていても、今は罵倒された方がマシだった。
その妄想が、アイラスの心を静めてくれた。
涙を拭いて、深呼吸して、再び考えた。
本当は今すぐにでも、魔法を自分もろとも消し去りたかった。
でも、この地で魔法が消えてしまうと、ロム達がクロンメルに戻れなくなる。
妖精の道で戻るには、来た時のように数日かかる。その間この国が安全とは限らない。せめて、白い悪魔の対応策は伝えておきたい。
そしてその後で、アイラスは皆を出し抜かなくてはならない。
トールが居ると難しい。先手を撃たなければ。
「ザラム!」
ホンジョウと話していた、多分説明をしていたであろう彼に、大声で呼びかけた。
「白銀様のトコに行こ! 白い悪魔の事、伝えなきゃ!」
「ロム達には?」
「もう伝えた」
嘘だ。
「すぐは無理だけど、できるだけ早く戻るって」
ごめん。でもお願い。疑わないで。
「わかった。行こう」
アイラスは、罪悪感を心の奥に封じ込め、差し出された手を取った。
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