少年は取り乱した

 早朝、窓の外が明るみ始めた頃。ロムは寝る事を諦めて身体を起こし、隣で眠る少女を見た。

 それから、自分の頬に触れた。アイラスが口づけたところだった。


 ロムはほとんど寝てなかった。一度はまどろみかけたが、アイラスとトールの話し声で目が覚めた。その後の会話は全て聞いていた。

 寝たふりなんかしないで、自分も起きればよかったと後悔していた。聞いてはいけない部分まで盗み聞ぎしてしまい、酷い罪悪感があった。


 さらにその後の出来事で、すっかり目が冴えて眠れなくなってしまった。




 ロムは再びアイラスを見た。こんな汚れた気持ちで見てはいけない。そう思っても、彼女に触れたくて仕方がなかった。昨日も自制が効かなくて危なくて、我慢しなきゃと思ったばかりなのに。


 そっと手を伸ばし、アイラスの柔らかい頬に触れた。ダメだと思う理性を手放して、ロムは彼女に口づけた。罪悪感はさらに酷くなった。




 ふと視線を感じて見上げると、トールが楽しそうな顔で見ていた。

 なぜ気づかなかったんだろう。いつもなら気配にはすぐ気づくのに。冷静ではなかったんだと思って、ますます居たたまれない気持ちになった。


「お願い……アイラスには、絶対、言わないで……」

「まあ、こういう事は自分で言った方が良いからの」

「言わないよ。言えない……」

「なぜじゃ? アイラスは……」


 トールは言いかけた言葉を飲み込んだ。その先は聞かなくても知っていた。

 でもアイラスの想いはとても純粋で、自分の心は酷く醜い。彼女の気持ちに答える資格は、自分には無いと感じていた。




「ちょっと、頭冷やしてくる……」


 そう言って、トールが止める声も聞かずに部屋を出た。今はアイラスから離れたかった。寝不足のせいか、足元がふらふらした。


 中庭の井戸に行って、冷たい水で顔を洗った。顔が熱くて頭がはっきりしない。重症だなぁと我ながら思った。


 でも、今日もアイラスを工房に連れて行かなくちゃいけない。レヴィの工房はなんであんな治安の悪いところにあるんだろう。そうじゃなかったら一緒に行かなくていいのに。

 いやいや、自分で約束したんじゃないか。いつでも連れて行ってあげるって。過去の自分が今の自分を見たら何て言うだろう。自分自身が情けなくて、ため息が漏れた。




 動かない足を無理に動かして、ロムは部屋に戻った。アイラスは起きていた。三人で食堂に行ったが、ロムはほとんど食べられなかった。

 それからすぐ保護区を出て、レヴィの工房に向かった。

 その間、ロムは一度もアイラスの顔を見ることができなかった。




 ただ歩いただけなのに、酷く疲れていた。ロムは工房には入らず、座り込んで動けなくなっていた。


「ロム、お前どうしたんだ?」


 レヴィが心配して顔を覗き込んだ。延ばされた手を振り払って、ロムは素っ気なく答えた。


「何でもない……」

「……お前、熱くないか?」


 レヴィは、自分とロムの額に手を当てた。彼女の前髪が持ち上げられて、今まではっきり見たことのなかった彼女の目が間近に見えた。緑の目だった。




 それは、母の目の色と同じだった。




 ロムは小さな悲鳴を上げ、座ったまま後ずさりした。


「おい、どうし……」

「嫌だ……嫌だ……俺に、触らないで……!」


 叫び声に気づいて、アイラスとトールが工房から出てきた。みなが心配そうに見守る中、ロムはすっかり取り乱していた。


「落ち着けよ。お前、熱があるぞ?」

「熱? ロム、風邪ひいたノ? 今朝から何カ、様子がおかしかったもんネ」


 再びレヴィが近づいてきて、ロムは怯えて後ずさりした。首を何度も横に振り、懇願するように叫んだ。


「やめて……やめて……! もう、こんなの、嫌だ……!」

「何か変じゃぞ。レヴィ、何をしたんじゃ」

「何もしてねーよ! 額を触っただけだ。すげえ熱かったぞ」


 レヴィは自分の額を触って見せた。また目が見えた。その緑は、ロムには毒の色のように見え、また小さな悲鳴を上げた。


「レヴィ! 目だヨ! 目を見せたラ、ダメ!」

「はぁ? なんでだよ……」

「私、見たコトあるノ。レヴィの目の色は、ロムのお母さんノ、目の色ト、同じなんだヨ!」

「なんでそれがダメなんだよ……」

「それハ……」


 遠く会話が聞こえたが、内容はわからなかった。頭が割れるように痛み、視界が歪み、ロムは意識を手放した。




 次にロムが目覚めたのは、自分の部屋のベッドだった。


 記憶がはっきりしない。工房に行ったような気がするのに、なぜ今ここで寝ているんだろう。頭がはっきりせず、考える気力も沸かなかった。


 それに、久々に母の夢を見て気分が悪かった。ただ、いつものようにいやらしく笑っていなかった。心配そうに見ていた。あんな顔は見たことがない。それでも、もう思い出したくなかった。


 忘れてしまいたくて、アイラスに会いたいとだけ願った。




 そのアイラスが、ドアを開けて部屋に入ってきた。


「ロム! 目が覚めタ?」


 水の入った小さな桶を持った彼女は、嬉しそうな顔で立っている。

 ロムも願いが叶った気がして嬉しかった。でも返事をする気力はなかったし、その気持ちも表情には出てこなかった。身体がだるくて全てが無気力だった。


 桶が重かったのか、アイラスは息を切らしていた。顔も少し上気している。その息遣いが、やけに大きく聞こえて気になった。


「レヴィの工房でネ、ロム、倒れたんだヨ。レヴィが、運んでくれたノ」


 そう言ってアイラスは、桶をテーブルの上に置いて、タオルを水に浸して絞った。濡れた手がなまめかしく見えて、触りたいと思った。


 アイラスはベッドに近づいて、ロムの頭の横に落ちているタオルを拾おうとした。


 無意識に、その腕を掴んで乱暴に引っ張った。自分でもびっくりするくらい、身体が動いた。アイラスはベッドに投げ出され、ロムは彼女の上に覆いかぶさって、その首筋に口づけた。汗の匂いと味がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る