ある言葉がなくなった日

温媹マユ

ある言葉がなくなった日

 ある日、誰かがその言葉を使うことをやめた。


 その人間は、どうしてもその言葉を使いたくなかった。

 それは、その気持ちがなかったから。

 その気持ちがないのに使えるはずがない。

 その気持ちがないのに伝えたくない。

 

 もしかすると、伝えたかったのかもしれない。

 でもできなかった。


 その言葉を受け取れなかった人間は嘆き悲しみ、心に大きな穴が空いた。

 空虚。

 あいた穴はだんだんと大きくなる。

 その人間もまたその言葉を使わなくなった。

 からっぽ。

 それは無限ループのようにぐるぐると回りながら伝わっていく。

 私からあなたへ、僕から君へ。

 人から人へ、人から動物へ、植物へ。


 そして、この世の中から一つの言葉がなくなった。


 今まで感謝を伝えてきたその言葉がなくなった。

 今まで大切にしてきたその言葉がなくなった。

 今まで想いを伝えてきたその言葉がなくなった。


 その言葉が持つエネルギーはとても強大なものだった。

 生命活動の根源となる、感情に作用するエネルギー。

 人々を喜ばせ、うれしさを与える。

 それが生きる糧になり、生命活動を活発にさせる。

 生活を豊かにさせ、生きがいを与える。

 それが繰り返され、平和な世の中が作られる。

 そして未来へつづく希望になる。


 それは、お祝いの言葉。

 入学式や卒業式、結婚式や誕生日に伝えるお祝いの言葉。

 親から子供へ、子供から親へ。

 恋人から恋人へ、友人から友人へ。

 その言葉を伝えることで、相手を思いやり、お互い温かい気持ちになる。

 その言葉を伝えることで、うれしさを共有し、お互い素直な気持ちになる。

 そして、それは愛に変わる。



 この世の中から一つの言葉がなくなった。


 その言葉を発しなければ祝う気持ちがなくなる。

 祝う気持ちがなくなれば、その対になる感謝の気持ちもなくなる。


 その言葉が持つエネルギーはとても偉大だった。

 本当は誰もが気付いている、とても大切なものだったと。

 なくなってから気付いても、すでに手遅れ。

 なくならないと気付かない、本当の大切さ。 

 失ったものは戻らない。


 その言葉を失うと、世の中のあらゆるものも急速に失われ始める。

 あたかもブラックホールに吸い込まれるように。

 たかが言葉、されど言葉。

 言葉が全てのものに密接に絡み合っている。


 そして平和や安心がなくなった。

 笑い声や温かい会話もなくなった。

 美しいものやおいしいものがなくなった。

 人と人とを通わす心がなくなった。

 動物や植物も同じ、みんな灰色。


 とうとう街ゆく人々から表情消えた。


 喜という感情がなくなれば、つづく怒哀楽もなくなる。


 そして生命体の活動も低下する。

 食べることをやめ、動くこともやめる。

 話すこともやめ、考えることもやめる。

 最後は生きることも。


 よどんだ空気、灰色の雲。

 日差しなどもうない。

 緑の美しい森や色鮮やかな花など、もうない。

 今まであったカラフルな世界はどこへ行ったのか。

 光もなくなり闇と化す。

 その言葉とともに、光すらなくなった。


 そしてそこに残ったものは、空虚。

 人の心の中は、からっぽ。


 この世の中から一つの言葉がなくなった。

 おめでとうという言葉が。

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