第一章 来馬牧場
1.帯広
札幌駅から高速バスに揺られ、僕と大木さんは帯広へ向かった。札幌は僕が想像していたよりも立派な街で、それでも僕のふるさととは変わった空気が流れている気がした。そんな街並みもだんだんと薄れてゆき、いつの間にか閑静な田畑が広がるようになっていた。冬というだけあって農作業をしている人は少なく、腰の曲がった老人が白い息を吐いて犬の散歩をしている。
牧歌的だなあと適当な思いにふけっていると、僕が寝ていると勘違いした隣の大木さんが僕の体をゆすった。その時頬をかすった髪からいい匂いがしたのを覚えている。
「おい、何寝てる阿呆者」大木さんは辺り一面の雪景色に何かと興奮気味だった。「ここからは歩くぞ」
「寝てません」僕はそっけなく答えた。「ただ物思いにふけっていただけです」
「何かひらめきでもした?」
「人生とは無駄な時間こそ大事だと考えます」
「呆れた!」大木さんはぷりぷり怒った。「若いのは気楽で羨ましいよ」
○
バスの走り去る音が遠ざかっていくとだんだん自分の置かれている状況が鮮明になってきた。
僕が自分の終焉の地に選んだはずのこの北海道で、僕は大木さんという謎の女性と旅をしている。彼女がいると僕の行動が拘束されるというのはなかなかにして厄介だが、彼女との旅が僕の薄汚れた人生に刺激をもたらすということを期待して黙っていた。
帯広の長い道を歩くと赤い屋根のバンガローが見えてきた。その奥に見える柵の中で、泡風呂みたいに積もった雪と戯れる犬の姿が見えた。門にアーチ状にかかる看板にはポップな字体で「来馬牧場」と書かれていた。大木さんは「いざ行かん」と意気込んで門をくぐった。
「お馬さんはいないね」
大木さんは少し残念そうに言った。
「雪にまみれていると風邪をひいてしまうんだと思います」
「そうなの?」
「いや、知りません」
「なんだそりゃ」
敷地内をしばらく進んでいくとバンガローとは打って変わって一般的な真新しい住居が見えてきた。その隣の犬小屋から犬が来客を告げる遠吠えをすると、中から姿勢のやたらいいご老人が現れた。ご老人の機微は若々しく、僕なんかよりずいぶんはつらつとしている気すらする。顔には深いしわが梅干しみたいに刻まれているが、細いたれ目が穏やかな雰囲気を放っていた。
「ええ、ようこそお越しくださいました。」ご老人が言った。「ご予約の大木様ですね?」
「今日はよろしくお願いします」
大木さんは急に大人になったみたいな声で言った。大木さんは年上の人と対峙するとそうなるのだ。
「本日来馬牧場を案内させていただく牧場主の来馬稲造です。ではいきましょうか、ええ、馬小屋を紹介します。」
○
馬小屋からは遠くからでもぷんと草と動物の臭いがした。でも、僕は不思議と嫌な感じはしなかった。大木さんもそのようだった。
「本日はどちらから?」
来馬さんがこちらの目をしっかりと見て尋ねた。
「東京からです」大木さんが言った。「北海道の牧場に興味があって、取材させてくださる方を探したんですけど、どうにも見つからなくて」
「農業もやってるとこは農繁期が過ぎてゆっくりしたいだろうしねえ」
そう言うと稲造さんは鍬を取り出して軽く牧草のロールに刺した。鍬にたっぷり牧草を乗せるとそれを馬がいる檻の前の餌置きに無造作に置いた。牧草の上にはさらに飼料を加えた。
「ぜひ餌をあげてやってください」稲造さんが言った。「ロールに鍬を刺すとね、たまにその中で眠っている猫にも刺さってしまうので気を付けてくださいね」
猫の安心しきったお尻に鍬を刺し、飛び起きる様子を想像するとなんとも滑稽でちょっと面白い気がしたが、大木さんに「若いってのは羨ましいね」とまた言われる気がしたのでこらえた。
大木さんが先にロール牧草に鍬を突っ込んだ。猫は残念ながら出なかった。
「お馬さんは一日にどのくらい餌を食べるんですか?」
大木さんが尋ねた。
「牧場にもよりますが飼料十キロ、乾草も含めると十二、三キロくらいですかね、ええ。ほとんどの馬はばんえい用に育てているので、中にはもっと食うやつもいますよ」
「へえ、君もみならったらどうだ?」
大木さんが僕を見下して言うので、僕もさすがにぷりっと怒って見せた。すると、大木さんが牧草を早く置かないので馬も体を震わせてぷりっと怒って見せた。
「びっくりした、この子の名前は?」
「シロマルです」稲造さんが嬉しそうに言った。
「ほう、シロマル」大木さんはシロマルと僕をわざとらしく見比べた。「お似合いだね、似た者同士って感じで」
「そいつはいいですね、ええ、今日はもう遅いですが明日にでも乗馬してみますか?」
「本当ですか。儲けだな、君」
大木さんは僕よりも楽しそうだった。
大木さんが笑うとなんだか僕もうれしい感じがした。
夢見る大木さんの理想の世界は! 社あおい @kyouhatikitiki
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