夢見る大木さんの理想の世界は!
社あおい
プロローグ 白銀の世界
白銀の世界
崖の上にある僕の家からは広大な海が一望できる。地平線の向こうから日が登るのは午前六時十分ごろ。冬の澄み切った空気を吸うと肺が生まれ変わっていくのがわかる。眩しい光を目に焼き付けんと、大きく目を開いた。
僕の世界には色素が宿っていない――
小さなバスターミナルだった。整備されたアスファルトの上に乗っかったようにある古い屋根には苔が蝕んで、柱は酷く錆びていた。時刻表には錆が雨に混じって垂れていった跡がある。このバスターミナルでバスを待っているのは僕だけだった。栄えている隣町から来るそのバスには、まあまあサラリーマンやらOLやらが乗っている。僕は、それに乗ってこれから一人旅をする。
宿に泊まる金がないので寝袋で野宿、パンを買うか悩むほどしか僕は親にお金をもらったことがない。貰えるのは雀の涙ほどのお年玉だけだ。月に二百円も使えばあっという間に底を尽きてしまう。
学校にも、家にも、僕の居場所はなかった。僕の話を聞いてくれる人も、僕に話をしてくれる人もいなかった。だから僕は一人旅に出て、この世界の美しさを知ることにした。ひとみに生の神々しさを宿して、それから大草原の中ひっそりと死のうと――
僕は新幹線に乗って北海道へ向かった。雪が見たいと思った。鼻をつんと刺激する氷点下の空気に触れて、全てを吐き出す思いで空に叫ぶのだ。今まで誰にも吐き出せなかった分……
向こうに着いたらまずは牧場でも見に行こうか。雪の上をどこどこと駆け抜ける馬や、牛乳を買って蜂蜜を入れたホットミルクを嗜むのもいい。一日くらい宿に泊まってみよう。宿の部屋の窓を開けると目の前には細い木々が広がっていて、池を取り囲むようにしてそこにある。その池に雪解け水が滴り落ちる音を聞きながら本を読むのだ。そしてその池に僕の涙までもが流れるのだ。何か滝も見に行こう。それで、「僕はもう満喫した」と言って静かに身を切るように冷たい水に溶け込むのだ。
人は、まさに死ぬその瞬間まで絶えず夢を持っているものだ。
北海道新幹線に揺られながら、僕は朦朧とした意識の中でうっとりと夢を思い描いた。
新函館北斗駅のアナウンスで目を覚ました。窓の外を見ると広い大空が広がっていて、奥には白白とした山が連なっているのが見える。大きな黒い箱のような建物が見えてきた。平地にそびえ立つ現代的な設計の建物に違和感すら感じた。僕はそこで下車し、売店でカフェオレを買って一息ついた。甘ったるい味が口いっぱいに広がった。
ふと横に目を向けると一人の若い女性がこちらを見つめて立っていた。
「お隣いいかい?」
女性はそう言うと僕の許可なく僕の左座席についた。
女性は僕よりも何回りも歳上で、大学生かそこらといった雰囲気だった。すらっと長い脚には程よく肉が付いていて、ニットセーターを着ている胸が申し訳程度に膨らみを持っているのがわかる。真っ直ぐに伸びてまとまっているその髪は黒い滝のように艶やかだ。顔は童顔で、どこにでもいる普通の女性といった感じである。
「阿呆者」
女性が僕に変な呼び方をした。
「なんでしょう」
僕は自分でも驚く程に冷然と答えた。
「見たところ、君はまだ十五前後だろう。こんな平日に一人北海道新幹線に乗って、何時間も揺られてどこへ向かうんだい?」
「僕は観光しにきました」僕は淡々と質問に答えることにした。「美味しいものを食べたり大雪原を見に行ってリフレッシュしようと思うのです」
「いいや、そうじゃない」女性は拗ねたように言った。「何故こんなにも若い君が『独りで平日に』新幹線に乗って北海道まで渡ってきた?」
女性が思いのほか強く言うので僕は何となく怖気づいてしまったが、一度、深く深呼吸をして女性に向き合って言った。
「実は、札幌に危篤の叔母がいるんです」
「叔母さんの名前は?」女性が訝しげに聞く。
「多恵子さん」
「君のお母さんの名前は?」
「八重子」
「叔母さんの名前をもう一度」
「美恵子さん」
「阿呆者」女性が僕の額を弱々しく小突いた。「いい歳した子供のくせに嘘をつくんじゃないよ」
僕はその時女性が悲しいような、なおかつ怒っていて、何かを決心したかのような、曖昧な表情を浮かべて見せた気がした。僕は特に何とも思わなかった。
「まあ何か悩んでいるなら私に言いなさい。どうせお金もあまり持ち合わせていないだろうし、私は良い人だから力になってあげるわよ」
僕は女性の目に一瞥もくれなかった。所詮、歳上だから子供が困っていたら声を掛けなきゃいけないとかいう、この国の風習に乗っかっているだけだと思ったからだ。上っ面だけ固めて他人からのポイント稼ぎに僕を使うつもりなのだ。僕はまたもカフェオレを口に含む。
「じゃあ少年、君は特になんの目的も無く北海道に来たのね」女性がそう言った。
僕は冷静にこくんと頷く。少し子供っぽく見えてしまったかも知れない。しかし、次に女性が紡ぎ出す言葉によって、僕の思考回路はめちゃくちゃに破壊されてしまった。
「じゃあ、私に付いて来てよ。北海道の観光地回り」
僕はその場に凍りついた。もともとあまり喋らないし、動きもしないから凍りついてるようなものだけれど、いつもとは違って心が盛大に動揺していた。僕の中の僕が血眼になって女性の意図を探ろうとしていた。この時から、僕は女性を今までに会ってきた数々の人々とはとりわけ違った存在として捉えるようになった。
「ねぇ、どうせ暇なんでしょう? まずはそうねぇ、牧場でも見に行こうか」
女性は当然のように話を進めていく。時々耳の辺りに掛かる髪をクルクル指に巻き付けて、指を抜くと形状記憶合金みたいにもとの形にまとまった。
「ねぇ、少年? 君に断る理由はあるかな?」
女性は僕をからかうように言った。
断る理由ならどうとでも取り繕うことが出来るだろう。しかし、僕の中の僕が革新と安寧を欲していた。行くあてもない、暗がりの人生の中で……
「でも、僕はお金を持っていないです」
「いいのよ、私が誘ったんだし。それに、お金があったとしても歳下の少年に払わせるわけにはいかないですもの」
僕らが乗ったバスが停車して空気が抜ける音をあげた。札幌に着いたのだ。女性はうー、と背伸びをして、一度深く深呼吸をした。僕も真似をして深呼吸してみると、澄み切った北海道の空気が肺胞に浸透していくのを感じた。
「さて、まずは交通網の確認だけど、その前に少年の名前を聞いていいかな? 私は大きな木って書いて大木」
僕は迷った。そして、家を出る時に決めていた事をそのまま言った。
「名前は言えません。個人情報保護のためです」
「ふーん」女性はあからさまに僕の表情を伺った。「いつか聞けるといいね、君の名前」
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