ひきこもり(今度はこの言葉の意味を人生経験から紐解いてみる)
ひきこもり……。
いつから、そのような言葉が定着するようになった?
私の学生時代には、『ひきこもり』という言葉は無かったはず……。
気が付いたら、世の中に出回っていた。
『ひきこもり』という言葉は、10代から天涯孤独の私には全く関係がない。
私には、ひきこもる場所がないから……。
たとえ、ひきこもれたとしても、それは自分で稼いだおカネが無くなるまで……という期限付きだ。
現に私は、人生に絶望したあと、それを経験をした。
家族なし、友人なし、恋人なし、結婚なし、子供なしで1回きりの人生を終え、生きる意味・気力・目的・希望が無くなり、この世に会話の相手とメールの相手が1人もいない状態の中、借家の一室で、動かない身体と精神とともに、排泄物の垂れ流しをしていた。
日本人は、自分さえ良ければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない。
おまけに、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがるクソガキしかいない。
この国では、そんな人間たちが家族主義を掲げているのだから、人間関係ができない天涯孤独の私なんか、公的にも私的にも、誰からも相手にされない。
相手にされないからと言って、仕事をしなければ、自殺と殺人以外、何も無くなる。
老いと孤独と死という未来しかない私が、いったい何のために、無理に仕事をして、無理に社会と繋がる必要があるのだろう?
すでに、私の居場所はないし、何よりも、私の世界観は誰にも理解できない。
生きるためだけに生きるというのは、簡単ではない!
まぁ、何を言っても、私の言葉が通じる人間(日本人)はいないけど……。
ひきこもり生活をしていたとき、激しい悩みと焦燥に襲われていた。
絶望して自暴自棄状態だったけど、それだけは常にあった。
時間は待ってくれないからね。
何もできずに人生を終わりたくなかったし……。
まぁ、それは今も感じていることだけど、あのときとは年齢が違うから、その度合いも今とは全然違う。
なんだかんだで、あのとき、このまま餓死するか……、自殺するか……、私を弾いた日本社会に対して無差別殺人を執行して死刑になるか……、選択肢はそれしかなかった。
まさか、路上に落ちてまで、それまでの生活を続けるという命の繋ぎ方をするとは思わなかったね……。
結局、みんな、おカネが無くなるまでという期限付きだと、おカネと家を失ったあと、必ず、仕事するようになるね。
まぁ、ごく少数だが、私のように、そのまま何もしない人もいるけど……。
大量殺人じゃなくて、軽犯罪で拘置所・刑務所に入るという選択もあったけど、元受刑者の私には、そういうループは……、一瞬のやすらぎでしかないことがわかるから虚しいんだよ。
私のひきこもりと、世間一般のひきこもりとの違いは何だ?
天涯孤独の私が自分の預金財産のみで生活しているのに対し、世間一般の方は同居する親や監護者の資産(家・土地・預金などの現有財産または相続財産と保険料)で生活していることに違いがあるのかな?
そういう私的な扶助以外に、公的な扶助にも違いがある。
私には生活保護という選択肢はないけど、世間一般の方にはある。
家族主義国家日本では、その家族主義の枠の中にいれば、いろいろと手厚い保障がある。
生活保護もその中の一つだ。
親が死んで、親の資産を食い尽くしても、今度はそっちに乗り換えることができる。
私のように枠の外に出てしまうと、最初から最後まで何も無い。
枠の中にいられるかどうかなんて不可抗力なのでどうにもできないけど、これは天と地くらいの差があるね。
私が牢屋の中に居たとき、他の受刑者たちは外に出たがっていたけど、私とずっとそこに居たかった。
「出たくない」と看守に言ったけど、通らなかった。
私の場合、出たところで何も無いからね。
本当に、運命の違いを大きく感じた。
ひきこもり問題で、私が奴らに痛烈に否定的なのはそのためだ。
ただ……、ひきこもりが単なる甘えとは思っていない。
人それぞれ形態も違うし……。
1度も社会に出たことが無い人もいれば、私のように途中でぶっ壊れてひきこもる人もいる。
途中リタイア組の場合、そのときの年齢……、ひきこもっている年数……、全てが人それぞれで理由も違う。
国はそれを同じように扱うのではなく、もっと細分化して、国家にとって、どのケースが問題アリで、どのケースが問題ナシなのかをハッキリと明示しておくべきだろう。
私みたいに税金と保険料を長年払ってきたにもかかわらず、いざとなったら何も無いでは、バカらしいからね。
私とは逆に、甘えだと思っている人間は、世の中にはたくさんいるみたいだ。
「こんな奴らは生産性が無い……」と堂々と罵る著名人の記事を見た。
まぁ、私に言わせれば、そんなことを言う奴は、たまたま自分が恵まれた環境でヌクヌクと生きてきただけである。
それを、偉そうに、努力・我慢・行動・ポジティブ・前向き・プラス思考・諦めない・強い……などという言葉を使って、それを怠ったからお前たちはそういう立ち位置にいる、また、オレはそれを実践したから今の立ち位置にいると、何でもかんでも自分の力で勝ち得たことにしているだけだ。
人生とは、持って生まれた外見・性格・身体的能力・知能指数(IQ)と、親や監護者にどういう環境でどう育てられるかという他者啓発で決まる。
その部分は自分の力ではどうすることもできないものだ。
求人年齢になって、ようやく自分の意思で何かができるようになるけど、それは自己啓発といった能力開発ではなく、自分にどんな能力が備わっているかを探す旅ができるようになったというだけだ。
別の人間に生まれ変わることはできない……。
その旅の結果、自分がハズレだとわかったら、もう絶望するしかない。
1度も社会に出たことのないひきこもりは、その旅すら許されない環境にいたというだけ……。
私のように途中でぶっ壊れたひきこもりは、その旅の結果、自分がハズレだとわかったというだけ……。
結局、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた人間が大勢を占めるこの国では、この問題を『生産性』という観点から罵ることしかできない……。
しかも、『負け犬』というレッテルを勝手に貼った上でね。
最近、それとは別に、『ひきこもり本人の生活援助をしてくれる同居の親が亡くなったら、その瞬間に、本人が自殺する・餓死する』という記事を目にする機会が増えた。
家族観という概念が存在する人生なら、生活保護に飛びつくと思っていたら、そうではなかった。
これは私の知らない世界だ。
家族観があるのに、なぜ、そういう選択になるのか?
かなり興味があるけど、私の人生観では理解できないだろう。
ひきこもり問題は、ひきこもる場所を取っぱらってしまえばいいだけ……、という私の考えを根底から覆す事案だからね。
まぁ、生活保護自体、最近はどの自治体も門前払いが加速しているみたいだから、そういうことなら私と変わらないけど、そもそも申請そのものをしていない気がするので、その精神世界は私の人生経験では理解できない。
『ひきこもり』という言葉の当事者に1度でもなってしまうと、そこから抜け出したとしても、結局は『社会からの孤立』から『社会の中での孤立』に変わるだけのような気がする。
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