186 過ちの末に
縁側に腰掛けて、澄んだ夜空に浮かぶ月を見上げた。
中秋の名月。私がここへ飛ばされてから今日でちょうど二年。嬉しいことや悲しいこと、色んなことがあったしこれからもあるのかもしれないけれど……両手を天へとかざし、月の輪郭を指で囲いながら思う。
今日のお月さまみたいに、みんなまあるく仲良くできたらいいのにね――と。
翌日からしばらく、
土方さん曰く、松原さんの様子がおかしい、何か思いつめているんじゃないかと心配しているみたいで、同行してそれとなく様子を探ってこいという。
松原さんは、八月十八日の政変時、坊主頭に鉢巻姿、小脇に大薙刀をかいこむという姿で、“今弁慶”なんて言われていた人だ。
誰かと争う姿は見たことがなく、山南さんと並んで優しい人と言われみんなからも慕われている。
そんな松原さんとの巡察に数日間同行したものの、何か考え事でもしているのかな? という風に見えることはあれど、仕事はきっちりとこなしていたし、特に不審な点は見当たらなかった。
そして、八月も下旬に差し掛かったこの日は、四番組に合わせて非番だったので、久しぶりに朝から稽古に明け暮れていた。
気がつけばそろそろおやつ時、少し休憩しようと道場の外に出れば、ちょうど屯所を出ていく松原さんの姿が見えた。
土方さんも心配しているし、何だか監察っぽい? なんて浮かれたわけじゃないけれど、あーだこーだと言い訳を浮かべながら、気づけばこっそりあとをつけていた。
松原さんの足取りは特におかしなところもなく、完全に私一人の監察
けれどもある地点を過ぎた辺りから、時折周囲を伺うようになった。引き返すという選択肢はすでになく、静かにあとをつけていれば突然、後ろから伸びてきた手に口を塞がれ脇道へと連れ込まれた。
こんな時に不貞な輩か!? 尊攘派の人間か!?
新選組の人間とわかったうえで捕まえたのか!?
何であろうと今さら後悔しても遅い。必死に抵抗するも、口元を押さえられたまま後ろからがっちり抑え込まれていては声を上げることもできない。
相手は、そんな私の耳元に顔を寄せると優しい声で囁いた。
「春さん、落ちついてください。私です。山崎です」
「……んッ!?」
動きを止めれば、山崎さんは私を開放するなり向き合うように反転させ、にっこりと微笑んだ。
「春さんは、いつから諸士調役兼監察に?」
「え、えーっと……これは、その……」
いつも以上に眩しいその笑顔は、土方さんに睨まれるよりも遥かに怖く、もしかしなくても怒っている……。
長くて言い辛い役職名を正式名称でさらりと言っちゃう辺り、余計に怖い!
「す、すみません……。つい、出来心で……」
「わかればいいです。次から無茶な事はしないでください」
そう言うと、今度こそいつもの笑顔で頭をポンとひと撫でする。
どうやら山崎さんも、土方さんから言われて松原さんのことを調べていたらしい。これ以上は山崎さんの邪魔をしかねないので、このまま退散しようとするも止められた。
「じきに暗くなります。一人で帰らせるわけにはいかないので、このまま一緒に来てください」
少しずつ日の入りも早くなったとはいえ、日暮れまではまだ時間もある。
けれど、過保護な山崎さんのこと。きっと何を言っても無駄な気がして、このまま尾行にお供させてもらうことにした。
せめて足だけは引っ張らないよう慎重にあとを追えば、松原さんは私たちに気づくことなく一軒の長屋の前で足を止めた。
戸口に向かって声を掛ければ一人の綺麗な女性が出迎えて、きょろきょろと辺りの様子を伺ってから入っていくその姿は、少し前からは想像がつかないほど明らかに挙動不審だった。
「誰の家なんでしょうか……」
「すみません。私も今日初めて尾行したのでわかりません。ただ、あの様子からすると、会っている事を人に知られたくはないようですね」
少し前、商家の女性と密通した隊士が切腹させられたことを思い出した。
もしかして、真面目で優しい松原さんまで? そんな不安に駆られながら、一つ手前の道に身を隠し二人でじっと待った。
ただ時間だけが過ぎ、町が夕焼けで赤く染まり始めた頃。
家路を急いでいたのか、走って来た子供がすぐ目の前で転んでしまった。咄嗟に駆け寄り抱き起こすも、大事には至らなかったようで照れ笑いを浮かべながら再び走り去って行く。
一安心しながら私も急いで山崎さんの元へ戻ろうとした時だった。
「琴月さん?」
まさか……と振り返れば、そこに立っていたのはちょうど長屋から出たばかり、という松原さんだった。
山崎さんは額に手を当てていて、これはもしかしなくても完全に足を引っ張ったかもしれない……。
取り返しがつかないほどの大失態!
真っ白になった頭で固まっていると、中から出てきた女性が心配そうに松原さんの腕に寄り添い、私たちを見るなり不安そうに表情を曇らせた。
松原さんは添えられた手に自らの手をそっと重ね、女性を見下ろし柔らかに微笑んだ。
「大丈夫だ。また来る」
「……はい。約束どすえ?」
ああ、と言ってその手を解けば、逃げることなくゆっくりと私たちの元へやって来る。
全てを察したのか、松原さんは観念したかのように苦笑した。
「土方副長の差し金ですか?」
「心当たりがあるようですね」
「少し、話を聞いてもらってもいいですか」
そう言って微笑む松原さんに促され、近くの河原へ行くことになった。
何気なく振り返れば、先程の女性と目が合った。不安と心配、そんな表情だった。
河原へ着き三人で並んで座るなり、松原さんがさっきの女性のことを含め、ただ淡々と今までのことを話し始めた。
それは今からおよそ二ヶ月ほど前のこと。
珍しく泥酔した松原さんは、路上で口論となった一人の男性を斬ってしまったのだという。同時に酔はすぐに覚め、事の重大さに気がついたとも。
斬った男の家はそこからすぐ近くだったようで、偶然通りがかった人に場所を教えてもらい、遺体を家まで運ぶことにしたらしい。
ただ亡骸を返すだけではなく、自らの過ちも告白するために……。
家についた松原さんを出迎えたのは、自らが斬ってしまった男の妻で、部屋の奥には病気で寝たきりの子供までいたらしい。
咄嗟に口をついたのは、“浪士と斬り合いになっていたところを止めに入ったが、間に合わなかった”という嘘だった、と。
それ以来、男手もなしに病気の子を育てるのは大変だからと女性の元を頻繁に訪れては、給金のほとんどを渡していたらしい。
「罪滅ぼし……いや、彼女に惚れてしまったんだ。出会ったその瞬間から……」
間もなくして、子供は治療の甲斐なく亡くなってしまい、気がつけば、お互い男女の仲になってしまっていた。
自分が夫の仇であるとはいまだ告げることもできないまま、今日ものうのうと逢いに行っていたのだと苦笑した。
「こんな日が長く続かない事は最初からわかっていた。屯所へ戻り次第、私から土方副長に全てお話します。二人のお手まで煩わせてしまい、申し訳なかった」
そう言って、深く頭を下げる松原さんを屯所へ連れ帰ると、私たちに話してくれたことを土方さんにも打ち明けた。
当然の如く土方さんは激怒、沙汰は追って下す、とそれまでは自室での謹慎を命じるのだった。
翌朝、廊下を歩いている時だった。
爽やかな鳥の囀りに混じって、低く唸るような呻き声が聞こえ、音を発生源を辿れば松原さんの部屋だった。
「松原さん?」
返事はなく、中からはいまだ呻くような声が漏れている。
「松原さん、開けますよ?」
やっぱり反応がないので、宣言通りに開けてみた。
そこにいたのは、この部屋での謹慎を言い渡された松原さんだった。
部屋の真ん中で正座をしているけれど、腹部は真っ赤な血で染まり、目の前にはベットリと血に濡れた短刀が転がっている。
「なっ……何してるんですかっ!」
すぐさま傷口を手拭いで押さえながら、大声で助けを呼んだ。
人を殺めてしまったことは決して許されることじゃないし、遅かれ早かれ切腹をすることになるのかもしれない。
けれど、こんな責任の取り方は間違っている……!
幸い一命はとりとめたものの、傷も身体の状態も思わしくなく、油断ならない状況が続いた。
そして、八月もとうとう最後の日を迎えた。
廊下を歩いていると、一人の女性が屯所の様子を伺うように立っていることに気づき、こちらから近づき声を掛けた。
近くで見るその女性は、もしかしなくても松原さんが一緒にいた女性で、女性の方も、あの時の……と私に気がついたようだった。
「松原はんはいてはりますか?」
「いますが……療養中です」
「お風邪でも引かれたのでっしゃろか?」
「……いえ」
「ほな、お怪我を? ……まさか、お腹を切ったりはしてまへんよね?」
つい言葉を詰まらせれば、やっぱり……と悲しそうな顔で呟いた。
この人は、いったいどこまで知っているのだろうか。
驚きつつも素直に問うと、女性はさらに驚きの言葉を口にした。
「松原はんのしたことは、世間様からみれば許されることちゃいます。せやけど、旦那の仇に情を移してもうたウチも同罪どす」
「仇って……。知っていたんですか……?」
「ええ。風の噂と……女の勘でっしゃろか」
そう言って、痛々しいほどの笑顔を浮かべてみせる女性は、ゆっくりと語りだす。
前の旦那に情がなかったわけではないけれど、病気の我が子を放ったらかして毎夜遊び歩くような人だったこと。
すでに親兄弟には先立たれ、頼れる人のいない自分たちのために生活費や治療費、薬代を、松原さんが工面してくれていたこと。
打ち明けられず苦しんでいたことに気がついてはいたけれど、それを自分から打ち明けることはできなかったのだと。
「ウチも怖かったんどす。知ってると打ち明けてまえば、ウチの元を去ってまうんちゃうかって……」
それは、聞けば聞くほどただ悲しくなるような話だった。
翌日、暦も変わり九月になると、御所や二条城の近くに京都守護職屋敷が完成し、松平
そんな日のお昼過ぎ、隊士の一人が血相を変えて部屋に駆け込んできた。
「ま、松原先生が……どこにもいません!」
隊士曰く、朝餉を部屋に運んだ時は確かにいたけれど、昼も同様に部屋へ行くも朝のお膳は手つかずのまま、布団も身の回りの物も綺麗に整頓された部屋からは、松原さんだけが忽然と消えているのだと。
傷だってまだ塞がっていないし、熱も高い。そんな身体でどこへ?
まさか……と呟く私の思考を遮るように、土方さんが訊ねてきた。
「女の家の場所はわかるか?」
「はい……」
松原さんが想いを寄せている女性のことを言っているのだろう……。
すぐに土方さんとともに屯所を出ると、例の女性の家へと案内した。
「すみません、松原さんが来ていませんか?」
扉の前で声を掛けるも返事はなく、今度は扉を叩きながら呼び掛けてみた。
それでも反応がなく、終には痺れを切らせた土方さんが、私を押しのけ勝手に扉を開け中へ入っていった。
「ちょ、土方さん!? 勝手に入っちゃ――……」
すぐに追いかけながら放った私の言葉は、立ち込めた鉄のようなにおいと飛び込んできたその光景に、そこで途切れた……。
土方さんの背中越しに見えたのは、四畳半ほどの小さな部屋に横たわる男女の姿……松原さんと、この家の女性だった。
二人はお互いの血で着物も畳も真っ赤に染め上げ、決して離れまいときつく抱き合うようにして倒れていた。
「そん、な……」
「遅かったか……」
それ以上の言葉は出てこなかった。
無言のまま揃って手を合わせると、最後にただ一言、馬鹿野郎……と悔しそうに土方さんが呟くのだった。
松原さんと身寄りがないと言っていたあの女性は、ともに光縁寺に埋葬された。
もっと違う形で出会っていれば、こんな悲しい結末にはならなかったかもしれない。
こそこそなんてせず、堂々と一緒に町を歩いたりできたかもしれない。
自ら命を絶つなんて、私には理解できないししたくもないけれど……。
思い出すのは最後に見た二人の姿……あんな凄惨な現場には全く似合わない、穏やかで幸せそうな二人の表情だった。
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