182 名前の呼び方と呼ばせ方
縁側の日陰部分で寝っ転がり、暑さを煽る蝉の声をかき消すように団扇で扇いでいれば、文机の方から声がした。
「おい、暇なら俺も扇いでくれ。暑くてかなわねぇ」
「いいですけど、非番ですからね? 暇してるわけじゃないですからね?」
「何でも良いから扇げ。今すぐ扇げ」
反論するエネルギーも使いたくないほど暑い。
仕方ないので土方さんの横へ行き、背を向けて座った。
「おい、扇げと言ったのに何でそっぽ向く?」
不思議がる不満げな声が聞こえるけれど、返事代わりに自分の顔の前で横向きに大きく扇いでみせれば、風は辛うじて後ろまで届いているはず。
だって暑いのは私も同じだし!
しばらく扇いでいると、井上さんと沖田さんが大きなスイカを持ってやって来た。
「春くん、一緒に食べませんか?」
「川で涼みながら食べようと思うんだが」
もちろん、断る理由なんてない!
持っていた団扇を土方さんに押しつけ立ち上がると、無言で袴を引っ張られた。……って、気づかず歩いていたら転ぶところだったし!
「お前、俺を置いて行く気じゃねぇだろうな……」
土方さんは額に汗を浮かべながらじろりと睨んでくるけれど、私よりも先に沖田さんが答えた。
「残念だな〜。土方さんは忙しいから行かないですよね〜。あー残念だな〜」
そう言って、急かすように手を引かれれば、ダンっと音を立てて団扇を文机に置く音がした。
「おい、総司! 行かねぇだなんて一言も言ってねぇだろうが! 俺だってあちぃんだよ!」
そう言って立ち上がる土方さんも、一緒に行くことになったのだった。
やって来たのは鴨川だった。
鴨川ではこの時期、“河原の涼み”と呼ばれるいわゆる納涼床が出ていて、辺りを明るく灯し夕涼みをしたりなんかする。
今はまだ昼間だけれど、スイカを冷やす間、納涼床の一角を拝借して寛いだ。
とはいえせっかく川へ来たのだから……と、袴の裾を両手で軽くからげ、浅瀬に素足を浸して遊ぶ。
不意に、背後から誰かが近づいて来る音がして振り返れば、そこにいたのは悪戯っ子の顔をした沖田さんだった。
その手には、掬った水が収められている。
「こうすればもっと涼しいですよ~」
避ける間もなく水を掛けられた。若干の悲鳴とともに抗議をするも、沖田さんはさらにバシャバシャと水を掛けてくる。
このまま一方的にやられっぱなしというのは悔しいので、裾が濡れるのも気にせず水を掛け合えば、突然、沖田さんが一時休戦を申し出た。
そして、無言のまま私の正面に立つ。
「……沖田さん?」
「総司でいいですよ」
「へ?」
「今さらですけど、春くんになら背中を預けてもいいって思えるからです。だから、はいどーぞ」
「え、あ、あの……?」
沖田さん曰く、自分が信頼できると思った人には下の名前で呼んでもらうようにしているのだとか。ついでに言うと、多少の例外はあれど、仲良くしたいと思う人はその人を名前で呼ぶらしい。
私のことも“春”って呼んでくれているけれど、それってつまり……。
改めて言われるとなんだか少し恥ずかしくて、思わず下を向けば急かされる。
「ほらほら~」
「えっと……そ、そう――ッ!?」
促されるまま口を開くも、突然、腕を引かれたせいで後方へと傾く身体は背中を誰かの胸に預ける形で止まった。
「なら、俺も名前で呼べ」
驚いて振り返り様に見上げれば、随分と至近距離で私を見下ろす土方さんと目が合った。
「……えっ。あ、あのっ……それはそれでハードルが高いんですがっ!」
『はあどる?』
思わず横文字を使ってしまい、二人同時に聞き返された。
「あ、いえ、副長を名前で呼ぶのはさすがに恐れ多いなって……」
というか、いまだ腕を掴まれているせいで背中が引っ付いたまま!
何だか落ちつかない……と離れようとしたら、今度は反対の腕を沖田さんに引かれ、そのまま正面から倒れ込む形で腕に閉じ込められた。
「そうですよね~。だから土方さんはそのままでいいですよ。なんなら鬼でいいんじゃないですか~? あ、僕は副長じゃないんで総司でいいですよ?」
……こ、これはいったいどういう状況? どうして私は沖田さんに抱きしめられているの!?
けれどもそんなことはお構いなしに急かされると、再び土方さんに片腕を引かれる形で沖田さんから剥がされた。
二人はなおも言い合いを続けるけれど、どういうわけか私の腕まで一緒に引く。
動くたびに水を跳ねる足元は涼しいけれど、頭上から降り注ぐ日光は相変わらず容赦がなく、あっちにフラフラこっちにフラフラ……って、そろそろいい加減にして欲しいのだけれど!
さすがに見兼ねたのか、納涼床から見守っていた井上さんが笑顔で助け船を出してくれた。
「春。ここはきっちり土方副長と沖田組長にしといたらいいんじゃないか?」
「あっ、確かにそうですよね!」
人数も増え組分けもされてから、より統率の強化を図るためなのか、特に平隊士たちには役職名や先生を付けた呼び方を徹底するようにしている節がある。
もちろん、お互いの間柄だったり、公の場でなければその限りではないけれど。
どちらにせよ、二人が役職持ちであることに変わりはないのだから……。
「今後はきちんと土方副長と沖田組長とお呼びしますね!」
「待てっ!」
「待ってくださいっ!」
なぜか二人同時に待ったがかかった。
「あっ、土方先生と沖田先生の方がいいですか?」
「そうじゃねぇ!」
「そうじゃないです!」
またしても二人同時に同じことを言う。
そうかと思えば、私は副長助勤と同格なので今まで通りでいい、とまで言い出した。本当に仲がいい。
……って、今まで通りでいい? まぁ、二人がいいというのだからいいのかな。
呼び慣れたものを変えるって、案外難しいからね。
スイカも冷えたようで、急遽、沖田さんの提案でスイカ割りをすることになった。
手頃な木の棒を見つけてくると、さっそく沖田さんがやるらしく手拭いで目隠しをした。
沖田さんからスイカまでの距離はおよそ十メートル。
このままやるのはつまらないからと、その場で数回くるくると回ることになった。
井上さんと一緒に声をかけるも、土方さんは楽しそうに正反対へ誘導しようとする。
それでも、騙されずにスイカへと向かっていた足取りが、半分を過ぎたあたりで大きく逸れ始めた。
「沖田さん、そっちじゃないです!」
「総司、もっと左だぞ」
いくら伝えても、沖田さんの身体がスイカへ向くことはなく、木の棒を振り上げたまま、なぜか土方さんの方へ向かって行くなり勢いよく振り下ろした。
「うおい、総司! てめぇ、どこ狙ってやがるっ!」
ギリギリのところでかわした土方さんが文句を言うも、再び振り下ろす。途中、得意の三段突きまで披露し始めた。
そんなことをしばらく繰り返したあと、目隠しを外した沖田さんが大げさに肩を落とした。
「あ〜あ、残念です」
その残念は、スイカを割れなかったことに対してなのか、土方さんに当たらなかったことに対してなのか……。
「何やら楽しそうだな」
突然、後ろから声がして振り返れば、そこに立っていたのは外出先から屯所へ戻る途中だという近藤さんと、その護衛についていた斎藤さんだった。
すると、沖田さんは半ば強引に斎藤さんに目隠しをしてスイカ割りを強要する。
仕方ないな、と木の棒を受け取った斎藤さんを、沖田さんがこれでもかとくるくる回せば、近藤さんが少し心配そうに言う。
「総司、いくらなんでも回し過ぎじゃないか?」
「気のせいですよ〜」
そう言うと、斎藤さんの肩を軽く押すようにポンと叩いた。
あれだけ回されたら目も回っているだろうし、誘導しようにもきっと足元は覚束ず、スイカには辿り着けない気がする……。
これはもしや、斎藤さんらしからぬ姿が見られるかも?
そんな予感を抱きながら声をかけるも、斎藤さんはみんなの期待を裏切るように真っ直ぐスイカの元へ歩いて行く。
次の瞬間、斎藤さんの足元には綺麗に割れたスイカが転がるのだった。
再び納涼床の一角を拝借すると、みんなでスイカを頬張った。
この時代のスイカは正直あんまり甘くないけれど、口の中にじゅわっと広がる水分は、川の流れとともに涼しさを感じさせてくれる。
そんな中、沖田さんが斎藤さんを見て微笑んだ。
「一くんの滑稽な姿を期待したんですけどね〜、残念です」
「ふん……沖田の考えそうな事だな」
にやりと返す斎藤さんを見て、ふと気がついた。
沖田さんは斎藤さんを下の名前で呼んでいるけれど、“総司”と下の名前で呼ばせてはいない。
それってつまり……?
「春くん? どうしたんです?」
思考を遮るように、沖田さんが私の顔を覗き込んできた。
「え……あ、えっと……。斎藤さんは、沖田さんのことを“沖田”って呼ぶんだなーと思って……」
「ああ。それはですね~」
ちゃんと理由があるらしく、説明してくれる。
実は以前、斎藤さんにも名前で呼んで欲しいと言ったことがあるのだとか。
けれど、沖田さんの方が年上で、斎藤さんは目上に対しては“名字でさん付け”を基本としているらしく、お互いの主張を譲歩しあった結果、年上だけれど“沖田”と呼び捨てにする形に収まったのだという。
「まぁ名前で呼ばない人もいますけどね〜」
そう言って、意味ありげに視線を動かすその先には土方さんがいた。
そういえば、土方さんのことは“土方さん”だし、その隣に座る近藤さんのことも“近藤さん”だ。
私が訊ねるより前に、沖田さんはまたしても私の疑問に先回りした。
「近藤さんは新選組の局長ですからね〜。それに、僕が尊敬する人でもありますから」
「ということは……」
「あ、土方さんは違いますよ。別に仲良くしたいだなんて思わないですし尊敬もしてませんから〜」
「てめっ、んなもん、こっちから願い下げだっ!」
突然割り込んだ土方さんを煽るように、沖田さんはいつものごとく飄々と受け答えをするけれど、そんな二人を横目にスイカを頬張っていた斎藤さんがぽつりと言う。
「試衛館にいた頃は、“歳さん”と呼んでいたけどな」
「覚えてませんね~。僕、過去は振り返らない主義なんです」
そんな沖田さんに向かって、近藤さんはどこか懐かしむように大きな笑窪を作った。
「そう言えばそうだったな。“歳さん歳さん”と言って、よく歳のあとを追いかけていたな」
「バラガキが悪さして近藤さんに迷惑をかけないよう、見張っていただけですよ〜」
「大して悪さなんてしてねぇだろうが!」
……大して? ……あっ、睨まれた。
さすがはバラガキ、怖過ぎるっ!
ああ言えばこう言う……そんな二人の攻防を温かな眼差しで見つめていた井上さんが、私に向かって小さな声で言う。
「まるで兄弟だろう?」
「本当ですね」
土方さんにも負けず劣らず素直じゃない沖田さんのこと、口には出さずとも、近藤さんに対する理由と同じなのかもしれない。
わいわいと賑やかに残りのスイカも頬張る中、一足先に食べ終えた近藤さんが立ち上がった。
「局長、副長、及び組長が揃ってこんなにのんびりしていては、格好がつかんからな。俺は先に戻るとする」
すると、いまだ言い合いをしていた二人がぴたりと黙り同時に近藤さんを見た。
「屯所には伊東さんがいるだろう。留守番くらい参謀殿に任せときゃいいじゃねぇか」
「そうですよ〜。何かあっても優秀な参謀殿が何とかしてくれますよ〜」
揃って引き止められた近藤さんが、それもそうか、と表情を崩し再び着席すれば、しばしの間、みんなで涼を取りながらのんびりとした時間を過ごすのだった。
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