138 誤魔化せない
近藤さんたちが出立する前夜。いつものように文机の前に座り筆を取る。が、そこから先がなかなか進まねぇ。
俺の字は読めねぇだの、会話するように書くだの、そんなことまで考えなきゃいけねぇせいで尚更進みやしねぇ。
筆先から墨が滴り落ちそうになり、慌てて硯の上に戻しては無駄に墨を吸わせてみる。そんなことを繰り返している。
寝起きの頭で句を捻り出す方が、よっぽど楽なんじゃねぇかとさえ思えてくる。
それでも何とか書き上げれば、今度は小言ばかりが並んでいることに気がついた。
同時に、あいつや源さんに言われた言葉が脳裏を過る。
これじゃ、口うるせぇ父親じゃねぇか……。
目の前の紙をくしゃくしゃに丸めて屑籠へ放り投げれば、縁に当たって畳の上に落ちやがった。二つ、三つ転がる似たような紙屑に、思わずため息までこぼれる。
何で筆なんか取っちまったんだ? 今すぐ文を書かなきゃならねぇ理由なんざねぇはずだ。
声にならねぇ声を上げながら頭の後ろをガシガシ掻き、そのまま後ろへ倒れた。視線の先にある見慣れた天井に、再びため息が出る。
「何やってんだ、俺は……」
ぼそりとした呟きも、静かな部屋では嫌というほどよく聞こえる。
顔だけを開け放った障子の外へ向ければ、秋の夜風が小さな虫の音まで運んでくる。
この部屋は、こんなにも静かだったのか。
あいつがこの部屋に住み着いて一年。
大部屋に押し込むわけにもいかず、仕方ねぇからここで過ごさせただけだった。
慣れすぎちまったのか、ここにいるのが当たり前になっちまったのか。あいつが来る前に戻っただけで、まるで知らねぇ部屋にいるみてぇに落ちつかねぇ。
いつかあいつが帰っちまったら、いずれこの静けさも当たり前に戻るんだろうか。
その時お前は、どんな顔をするんだろうな。
元の時代に帰れる喜びに満ちた顔か、最後まで見届けられなかったと悔しがる顔か。
それとも……。
……いや。時を越えちまったら、もう涙を拭ってやることは出来ねぇからな。笑って帰りゃいい。
その時は俺も、笑って送ってやるしかねぇな。
ひょいと身体を起こして筆を取った。
先の見えない、いつかの話なんざしたって仕方がねぇ。
今はただ、ここへ無事に帰って来い――
* * * * *
「琴月春。お前はいったい何者だ?」
星明りが照らすその目は正確に私を映していないにも関わらず、真っ直ぐに
「新選組は男ばかりと聞いている。そこに女のお前がいるのはどうしてだ? なぜ、偽ってまでそこにいる?」
「あ、あの、私はっ……」
「見ての通り俺は目が見えない。だが、他の奴らには見えないもんがよく見える。初めは異人なのかとも思ったが、そういうわけでもないんだろう?」
さすがは兄弟、どこか土方さんに似ているその目は何でもお見通しらしい。
広間から漏れ聞こえる声は相変わらず賑やかで、前方から吹く虫の音を乗せた夜風が、赤い紐で揺った私の髪を揺らしていった。
嘘は全て見抜かれる……と、そんな気がした。
信じてもらえるかわかりませんが……、そう前置きをしてゆっくりと深呼吸を一つした。
「私は……この時代の人間じゃありません。ここから百五十年以上も先の時代から来ました。仰るように男でもありません……。男と偽って、新選組にいさせてもらってます」
正直に打ち明ければ、為次郎さんは盛大に吹き出した。
「そうきたか。まさか、先の世から来た人間だったとはな」
信じて……もらえてないよね、この反応は。当然と言えば当然だけれど。
思わず視線も落ちれば、為次郎さんはどこか楽しげに話し出す。
「すまない。実はな、半分はハッタリ、鎌をかけただけなんだ。だが、お前さんは随分と素直な女子のようだ。こんな目の見えない老いぼれなんぞ、その気になればいくらでも欺けただろうに」
「……信じて、くれるんですか?」
「嘘をついているか否か、見破るなんざ容易い。言っただろう? 俺には見えないもんが見えるんだ」
どこまで本当かわからないけれど、為次郎さんはそう言って楽しそうに笑いながら空を仰ぎ見た。
「歳は知っているのか?」
「……はい。全て知っています。知ったうえで、私が新選組にいられるようにと配慮してくれています。……なので、あの――」
「安心しなさい。あいつが知っているならそれでいい」
「へ?」
思わず間抜けな返事をした私に、為次郎さんがどこか懐かしむように語りだす。
「俺たちはあいつが幼い頃に両親を亡くしてな。年の離れた末弟のやんちゃなあいつを特に可愛がったもんだ。見ての通り、俺はこんなだから家庭も持たなかった。だが、勝手にあいつの親代わりをして来たつもりなんだ。だからこそ、あいつに害をなす奴なら……と思ったんだが、どうやらそういうわけではなさそうだからな」
「私、は……」
「お前さんには何かよっぽどの理由でもあるんだろう。だが、歳が知っているなら俺はそれ以上訊かない。もちろん口にもしない」
「あの……ありがとうございます。信じてくださって……」
「何、こんな老いぼれがそんなことを口にした日には、とうとう頭までボケたと思われるんでな」
為次郎さんはそう冗談めかすと、豪快に笑いだした。
ありがとうございます……と深々とお辞儀をすれば、後頭部にポンと片手が乗っかる。
「歳をよろしく頼む」
「……はいっ」
この人の目は本当に見えていないのかな……と思うくらい不思議な人だった。
同時に、その大きな手はやっぱり土方さんに似ているとも思うのだった。
翌日、みんなに見送られながら近藤さんとともに試衛館へ戻った。
隊士の募集も順調みたいで、江戸を出立する日も十月十五日に決まった。
帰りももちろん徒歩なので、みんな健康管理には注意していたけれど、江戸へ来てからも忙しくしていた近藤さんが胃の不調を訴え、幕府から紹介してもらったという御典医の
江戸にいる間、近藤さんの護衛は基本的に腕の立つ永倉さんが努めていたけれど、この日は近藤さん直々に指名され私も同行することとなった。そこには、色々な場所を見れば何か思い出せるかもしれない、という近藤さんの配慮もあるらしかった。
医学所があるという神田和泉橋には随分と大きなお屋敷が建っていて、医学所はそのすぐ側だった。
近藤さんが診察する間、永倉さんと一緒に部屋の隅で待っていたけれど、診察中から交わされていた議論はどんどん白熱し、診察を終えても止まらない。
どうやら先生の考えに、いたく感銘を受けている様子だった。
ようやく話が一区切りつくと、薬を調合し始める先生の背中に向かって近藤さんがさっきまでとは違う表情を見せた。
「ところで良順先生。失くしてしまった記憶を取り戻す薬、とういうのはないだろうか?」
それってもしかして私のこと?
不思議そうに松本先生が振り返れば、近藤さんが部屋の隅で控える私を見た。隣にいる永倉さんまで私を見ていて、どうやらもしかしなくても私のことらしい。
「実は……彼は大八車に轢かれ記憶を失くしてしまったそうでね……」
松本先生は二人の視線を辿ってじっと私を見つめてくるけれど、なんだか射貫くような鋭さについ逸らしてしまった。
「残念だが、そんな薬はない」
「そうか……」
肩を落とす近藤さんに、先生は調合した薬を手渡した。
「近藤さん、忙しいのはわかるがあまり無理はせんように。また来るといい」
「はは。無理してるつもりはないんだがな。それより、有意義な時を過ごせてよかった。出立前にはまた是非寄らせてもらいますよ」
挨拶を済ませた近藤さんに合わせ永倉さんとともに部屋を出ようとするも、どういうわけか私一人だけ呼び止められた。
なんだか嫌な予感がするものの、外で待っている、とご機嫌で笑窪を作る近藤さんと永倉さんに置いていかれてしまい、二人の背中を見送るなり諦めて松本先生に向き直った。
「君、名前は?」
「申し遅れてすみません……。琴月春と申します」
「春、か。琴月君、君は……いや、無粋だな。やめておこう」
「……え?」
苦い顔で坊主頭の後ろを掻く松本先生は、それ以上何かを問うこともなく、ただ私の肩に片手を乗せた。
「引き止めてしまってすまいない。私も有意義な時を過ごせたと近藤さんに伝えてくれ」
「……はい。失礼します……」
一礼して部屋をあとにした。
松本先生が言おうとしていたこと……薄々想像はつくけれど、いくら考えたところでそれは憶測の域を出ない。
ふと、山崎さんと初めて会った時のことを思い出せば、やっぱり医者の目は誤魔化せないのかな……と思うのだった。
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