079 着物と琴
三月の下旬。
もう炬燵は片づけてしまったので、部屋の縁側で足を垂らし、午後の暖かな日差しで日向ぼっこをしていた。
ふと、昨日の巡察中に耳にしたある噂を思い出した。
「新選組が、越前公を暗殺なんてするわけないのに……」
思わずため息までこぼせば、文机に向かっているはずの土方さんが見事に拾い上げる。
「所詮は噂だ。随分と
「悪過ぎです!」
噂とは、新しく京都守護職に就任した越前公を、新選組が暗殺しようとしている、というものだ。
確かに、新選組を預かっていた前京都守護職の会津公が移動になった時、幕府に嘆願までしたけれど。結局は、再び会津公の配下に収まったので越前公を暗殺する理由なんてない。
そもそも、そんなことで暗殺を企てるとかありえない。全く、誰がこんな物騒な噂を流すのか。
「あっ! 噂をしている人に誰から聞いたか訊いていけば、噂を流した犯人に辿りつけたりしませんかね?」
「お前、おもしろいこと思いつくな。暇そうだな?」
「暇じゃないです。非番なんです」
出所探しなんて無理! 自分で言っておいて何だけれど、人を辿ったところでそう簡単にわかるものじゃない。
土方さんと無言の攻防をしていると、近藤さんがやって来た。ここは逃げるが勝ちで部屋を出ようとするも、近藤さんに引き止められてしまった。
「春にも関係があることだから、一緒に話を聞いてくれ」
何だろう? 一先ず、噂話の出所探しは回避できそうだけれど。
話を聞く姿勢をとると、さっそく近藤さんが切り出した。
「春。とある商家に、山崎君と一緒に潜入して欲しい」
せ、潜入!?
なぜ私? と驚く横で、土方さんが訝しみながら口を開く。
「その商家ってのは、この間断られたとこか? 潜入するにしても、こいつである必要はねぇと思うが」
「ああ、その商家だ。だからこそ、春の協力が必要なんだ。むしろその……春にしかできん……」
「近藤さん、悪いが話が見えねぇ。どういう意味だ?」
私も全くわからない。思わず顔を見合わせた私たちに向かって、妙案だろう? とばかりに近藤さんが自信たっぷりに説明し始める。
どうやら商家に出入りする浪士たちの中に、長州の人間が紛れているという情報があり、それを特定して捕縛するらしい。
少し前、その商家に協力依頼をするも、壬生狼には協力できん、と断られてしまったようで、潜入することにしたのだと。
けれど、男一人では新選組の回し者と思われかねないので、私が女装をして、山崎さんと夫婦を装い潜入するらしい。
私はいわば、潜入するためのカモフラージュ。仕事も炊事、洗濯、掃除……いわゆる女中のお仕事が主だと。
説明が終わると、さっそく土方さんが反論を始めた。
「山崎はともかく、こいつが上手く潜入できるとは思えねぇな」
「実は知り合いのつてでな、親戚の息子夫婦を訳あって数日預かって欲しいと頼んでもらったら、五日ほどでよければ働くことを条件にと許可が出た」
「ちょっと待て! 許可が出たって、こいつの返事もまだ訊いてねぇじゃねぇか!」
「まぁまぁ、落ちつけ歳。手筈は整えたが決めるのは春だ。今回はその……女装という特殊な任務だしな……」
女装か……私に務まるかな? って、本来の姿に戻るだけじゃないか!
しかも、山崎さんの付き添いで商家へ入って、女中の仕事をしていればいい。うん、私にもできそうだ。
というか、他の隊士たちの女装姿を想像して、一瞬頭がクラクラした。無理がある……。
藤堂さんでギリギリ……?
どうやら土方さんも同じことを思ったのか、その名を口にするけれど……。
「平助にはすでに断られた。さすがに、今回ばかりは無理強いはできんからな。春も嫌なら断ってくれていい」
「お前には無理だ。やめとけ」
土方さんが思い切り睨んでくるけれど、そう頭ごなしに否定されると反抗の一つもしたくなるわけで。
「やります!」
「おまっ、無理だっつってんだろうが!」
「できます!」
そんな言い合いが始まるも、すぐさま近藤さんが割って入る。
「まぁ、落ちつけ歳。春を心配する気持ちはわかるが、浪士に直に接する山崎君はともかく、女中に徹する春は危険も少ないだろう?」
「そうかもしれねぇが……」
近藤さんは私に訊いているのに、いちいち土方さんの許可が必要なのか?
何だかまるで……。
「お父さんみたい」
「おっ、お前なっ! 俺は心配してやってんだぞ!」
「そういうところが、お父さんみたいって言ってるんです!」
「何だとっ!? もういい! 勝手にしろっ!」
勝手にしていいと言われたので、苦笑いを浮かべる近藤さんに改めてやりますと伝えて話はまとまった。
驚いたのは、さっそく明日からの仕事だったこと。
夜になり布団を二組敷きながら、文机の前で筆を取るでもなく、ただ腕を組んでじっとしている背中に向かって声をかけた。
「まだ怒ってるんですか?」
「あ? 怒ってねぇよ」
いや、どう見ても怒ってるし……。
「この間、拐われかけたりもして、土方さんが心配してくれているのはわかってます」
「だったら何で引き受けてんだよ! お前、自分の立場を理解してんのか!?」
土方さんは、勢いよく振り返りながら声を荒らげるけれど、私だってちゃんと考えた。前回の温泉旅行……じゃない護衛の時のように、思いつきで返事をしたわけでもない。
「今回、私は浪士と直接関わるわけじゃないですし、一緒に行く山崎さんは、私が女だということも知っています。それに、私にしかできないことなら、私はやりたいです」
ここにいる以上、私にもできる仕事はちゃんとこなしたい。
それに、せっかく近藤さんがお膳立てしてくれたのに、私まで断ったらきっとこの話は白紙に戻ってしまう。そうしたら、掴んだ情報まで無意味になってしまう。
相変わらず鋭い土方さんの目を真っ向から見つめ続ければ、根負けしたのは土方さんの方だった。
ふいと再び背中を向けるなり、ぼそりと呟く。
「無茶だけはすんじゃねぇぞ」
「……はい! ありがとうございます!」
「うるせぇ。明日は早ぇんだ。とっとと寝ろ」
一応、納得してくれたってことなのかな? 相変わらず素直じゃないけれど……。
翌朝、重大な問題にぶち当たった。
本来の姿に戻るだけなのに、女物の着物が着られない……。
袴は履けるのに着物が着られない女? どうしてこうなった!?
急遽、井上さんに着付けてもらうと同時に頭に叩き込むと、部屋へ戻ってきた土方さんに鼻で笑われた。
「馬子にも衣装だな」
「どうせ袴履いてる方が似合ってますよーだっ!」
思い切りあっかんべーをして見せると、井上さんに頭をポンポンと撫でられた。
「何言ってんだ。凄く似合ってるぞ。歳は素直じゃないからな、照れてるだけだろう」
「そうなんですか?」
「馬鹿か! んなわけねぇだろう! そんなことより山崎が待ってんだ、早く支度しろ!」
そう吐き捨て部屋を出ていけば、開かれたままの襖を見つめる井上さんの眼差しは、何だかとても暖かかった。
支度を終え井上さんと門のところまで行くと、土方さんと山崎さんがいた。
こんな姿を他の隊士に見られたら面倒なので、土方さんはさっさと任務の最終確認をして私を見る。
「お前は女中だからな。余計な真似して山崎の邪魔だけはすんじゃねぇぞ」
「わかってます! ちゃんと女中のお仕事してきます」
そのあとも細々とした苦言が続き、そんなに信用ないのかな……と落ち込めば、井上さんに頭を撫でられた。
「歳は心配で仕方がないらしい」
「そうなんですか?」
「馬鹿か! 当たり前だろうが! お前がヘマすりゃ、山崎に皺寄せがいくんだからな!」
……って、山崎さんの心配か!
思わず突っ込みかける横で、井上さんがやれやれという表情で苦笑する。
そんな二人に見送られた出発は、しばらく歩いた先で振り返っても変わらずそこに立っていた。
「行ってきまーす!」
手を振り大声で叫んでみれば、転ぶから前向いて歩け! という土方さんの声が返ってくるのだった。
商家へと向かう途中、山崎さんが私を見て微笑んだ。
「春さん、とっても似合ってます」
「あ、ありがとうございます。本当は
まだ髪の長さが足りないうえに、そもそもそんな洒落た物なんて持っていない。
「大丈夫ですよ。着飾らなくても春さんは十分可愛いです」
そ、そんなに誉めても何も出ないからねっ!
予想外の言葉にあたふたすると、山崎さんは右手で私の左の頬に触れ、心配そうな顔で覗きこんできた。
「酔っぱらいに絡まれたそうですね。まだ痛みますか?」
「へ? あっ、だ、大丈夫ですよ、これくらい。何てことないです!」
山南さんに殴られたことは、私と山南さんと、そして土方さんの三人しか知らない。表向きは、酔っぱらいに絡まれたということにしてある。
それよりも、そんな風に優しく女扱いされては擽ったい!
「え、えっと、短い髪に顔の打撲跡なんて……何だか本当に訳あり夫婦って感じで丁度いいですねっ!」
「私はさしずめ、妻に折檻するろくでもない亭主ってところですか?」
山崎さんは冗談っぽくそう言うと、何かを思い出したようでそっと手を離した。
「今回、私たちは新選組であることを隠し、夫婦として潜入することになります。なので、私のことは“
「あー、えーっと……こ、琴でっ!」
……って、これじゃ土方さんのこと言えないっ!
思わず肩を竦めれば、足がもつれ身体がぐらついた。
咄嗟に山崎さんの腕が支えてくれたので、転ぶことはなかったけれど。
「怪我はないですか?」
「はい。……ありがとうございます」
「いえ、春さんに怪我がなくてよかったです」
袴の感覚で歩くと、裾が足にまとわりついて歩きづらい。
もっと意識して歩かないと……と身体を起こせば、山崎さんが微笑んだ。
「腕を掴んでいていいですよ」
本当に歩きづらいので、その申し出は正直ありがたい。
けれど、それはそれで少し照れくさくて渋っていれば、山崎さんに手を取られ腕を掴まされた。
「転んで怪我でもしたら大変ですから」
眩しいくらいの笑顔は、私の返事も待たずに腕にかけた私の手に手を重ねたまま、ゆっくりと歩みを再開する。
だからこれじゃ、腕を組んでいるみたいで恥ずかしいのだけれど!
や、山崎さーん!?
そんな私の心の叫びは届かず、眩しい笑顔とは裏腹に、半ば強引に腕を掴まされたまま商家へと向かうのだった。
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