069 峰打ちと私なりの覚悟
翌日、富澤さんの宿を訪ねるという近藤さんを見送ってから、原田さんと一緒に巡察へ出た。
大樹公こと第十四代徳川将軍が入洛しているせいか、市中では時たまその名を口にする人々の声が聞こえてくる。
大樹公が上洛するのは今回がニ度目、一度目は去年のことらしい。
そういえば、一度目の警護のために結成された浪士組が、壬生浪士組になったと言っていたっけ。
そもそも、この上洛そのものが凄いことで、歴代の徳川将軍で上洛したのは初代の家康公から三代目まで。それ以降は誰も上洛しておらず、十四代目の
それも今回でニ度目。それだけ今の情勢が不安定ということなのだろう。
普段、浅葱色の羽織を着て巡察していると、あまり関わりたくないとばかりに人混みの方が勝手に捌けていく。
極たまに、面白半分で絡んでくる輩もいたりするけれど、そういうのは決まってただの冷やかしで、こちらも適当にあしらっておしまいとなる。
けれど、この日は違っていた。
突然、酔った浪士風の男が二人、私たちの前に立ち塞がるなり不満をぶちまけた。それらはエスカレートし、あろうことか大樹公のことまで罵りだした。
私たちへの中傷だけならまだしも、こんな往来で、幕府のトップへの暴言はさすがに放っておくわけにもいかない。
隣にいた原田さんが、すかさず槍を構えながら忠告する。
「おい、その辺にしとけ。それ以上続けると、いくら酒が入ってるとはいえ見逃してやれねーぞ?」
他の隊士たちも、同じようにいつでも刀や槍を使える状態にしている。これは威嚇だ……そう思いながら、私も腰の刀に手を添えた。
それで引いてくれればよかったのに、相当酔っているのかよっぽど今の幕府に不満があるのか、二人はやめようとしなかった。
「しょうがねえ。もう、お前ら連行だ」
原田さんが槍を下ろしながら面倒くさそうに告げれば、隊士たちが二人に近づく。
ところが、二人は酔っぱらいとは思えない身のこなしで一斉に走り出した。それも、それぞれ反対方向に!
逃げるつもりなら、見逃してもらえるうちにやめとけばよかったのに!
「こなくそっ!」
そう吐き捨てた原田さんが、槍の柄で男の足元を掬い上げ転ばせた。流れるような一連の動きに見とれそうになるも、もう一人は逃げたままだ。
隊士たちが倒れた男を押さえ込むのを横目に、原田さんが叫ぶ。
「春、あいつを追うぞ!」
「はいっ!」
酔っぱらいのくせに以外と足が速い。二人で追いかけるも、狭い路地へと逃げ込まれた。
このままでは見失いそうで、原田さんを置いて全力で走り私も路地へ飛び込んだ、直後。
――――世界が、揺れた――――
よろけそうになる身体を立て直せば、前方ではさっきまで追いかけていたはずの男が刀を振り上げていた。
その目は、山南さんが怪我をしたあの日、私と対峙した男の目と同じような色をしていて、きっともう言葉は届かない……そんな気がした。
振り下ろされる刀から身体を横にして避けると、今度はそのまま斬り上げてくる。それも避けたところで、追いついた原田さんの声が後ろから聞こえた。
「春っ! 斬れ、斬れ! やらねえならどけ! 俺が斬るっ!」
酔っているとはいえ、相手は殺すつもりで刀を振るっている。そんな相手に手加減なんてしていたら、こちらが殺られてしまうかもしれない。
だからきっと、原田さんの言葉は本気だ。
もう一人を捕縛し終えた隊士たちも集まり始めていて、ここが路地の入り口で本当によかったと思った。
大通りだったらきっと、すぐさま取り囲まれて、今頃斬られていたと思うから。
思いのほか冷静だった。
男が脇の家に刀傷をつけるのを見ながら、鞘を掴み、柄を握る。以前、土方さんに教わったように刀の鯉口を切れば、男に当ててしまわないようゆっくりと引き抜いた。
目を見開いた男から放たれる殺気が、痛いほど肌を刺すような感覚がする。
ゆっくりと繰り出される突きを目で追いながら、私も刀を振り上げた。
大きく息を吸い、刃を返す。迫る刀をギリギリのところで避けると同時に、刀を握る男の手を目掛けて一気に振り下ろした。
(ごめんなさいっ!)
稽古で使う木刀とは明らかに違った。
曖昧な時間感覚のなか、耳の奥で刀の落ちる音がやけに大きく響く――
「春っ! おい、春! どうした!?」
原田さんに肩を揺すられていることに気がつくと、目の前では呻きながらうずくまる男が、隊士たちに縄をかけられているところだった。
痛みを堪えるその手に、血は流れていなかった。
「大丈夫か? とりあえず、その刀しまえ」
「え? あ……は、はい」
抜刀したままだった刀を、抜くとき同様ゆっくりと鞘に納めた。
「あの状況から捕縛しちまうなんて、お前、やっぱすげえじゃねーか」
「必死……だっただけです」
感心する原田さんの大きな手が、謙遜すんな、と私の頭をくしゃくしゃっとした。
巡察から戻ると、その足で稽古場へ直行した。初めて死番をやった時のように、身体の内側をざわざわと何かがうるさく駆け巡っていて、それを振り払うかのごとく木刀を振った。
考えることはたくさんあったのに、妙に冴え過ぎた頭では何も考えることができなくて、ひとしきり汗を流してから、諦めるように部屋へ戻った。
文机から振り返る土方さんが、そこへ座れ、と首を振る。
正面に腰を下ろせば、筆を置き、私に向き直るなり腕を組んだ。
「左之から聞いた。斬り捨ててもおかしくねぇ状況だったんだってな」
斬り捨ててもおかしくない……か。心眼がなければ、私も斬っていたのだろうか。正当防衛だとでも言い聞かせて。
それとも、何もできず原田さんに全て任せていたのだろうか。
何にせよ、私は刀を抜いた。
「初めて、人に真剣を向けました……」
「そうか。怖かったか?」
怖かった……?
たぶん、それは少し違う。
「私がしたのは峰打ちです。刀を抜く前から、斬るつもりなんてありませんでした。だから、人を斬る恐怖とは少し違う気がします」
新選組の副長に向かって、堂々と斬るつもりはなかったなんて、自分で言っておいて笑いそうになる。
いつも以上に怒鳴られるかと思いきや、部屋はしんと静まり返ったままだった。怒る価値すらないということだろうか。
「呆れてますか?」
視線を上げれば、土方さんと目が合った。
「なぜそう思う?」
「だって……斬らなかったんですよ? 土方さんならとっくに気づいてるんじゃないですか? 私に……人は斬れないだろうって」
「そうだな。お前に人は斬れねぇだろうな」
全てお見通しだと言わんばかりの顔は、微笑みさえ浮かべているようにも見える。
「だが、それがお前のやり方なんだろう?」
「私、の……?」
「あのなぁ。新選組は人斬り集団じゃねぇ。斬らずに済むならそれが一番いいことくらい、お前だってわかってるだろうが。だからこそ、お前は自分の力を活かしてそれをした。違うか?」
違……わない。
山南さんに教えてもらった峰打ちと、私の心眼があればできると思ったから。
相手が誰であろうと傷つけるなんてできないから、ちゃんと刀を抜くことも、峰打ちで相手の刀を落とすこともできた。
けれど、思い通りにできたはずなのに、どうしてこんなにモヤモヤしたままなのだろう……。
「怖ぇか?」
再びそう問われて、ふるふると首を振る私のおでこを、土方さんが指で軽く弾いた。
「っ! 何するんですか……」
「わかんねぇのか? 今お前が恐れてんのはな、人を斬ることなんかじゃねぇ。人に刀を向けたという事実を受け入れることだろ」
ああ……そうか。そうなのかもしれない。
最初から峰打ちをするつもりだったとはいえ、刀を……人を斬り殺せる武器を、一瞬でも人に向けたという事実……。
平和な時代で刷り込まれてきた道徳心が、音をたてて崩れていくような気がして、そのまま飲み込まれてしまうような気がして怖いんだ。
「けどな、お前が刀を抜いたことで斬られずに済んだ奴がいる。それだって事実なんじゃねぇのか?」
「そうかもしれません。でも……」
「なら、何もせず黙って見てるだけで、左之に斬らせた方がよかったか?」
それは、それだけは絶対に違う!
思い切り首を左右に振れば、土方さんの少しだけ力の籠った声が響く。
「だったら覚悟を決めろ。刀を抜く時ってのはな、相手を斬る覚悟だけじゃねぇ、自分が斬られる覚悟も持つもんなんだよ。その覚悟もねぇ奴に、刀を抜く資格なんざねぇんだよ」
「斬られる、覚悟……?」
「お前に斬れとまでは言わねぇ。心眼があるなら、斬られる心配もねぇのかもしれねぇ。だからってな、何の覚悟もねぇ、痛みの一つも背負おうともしねぇで刀を抜くんじゃねぇよ」
痛みを背負う……?
ああ……そっか。新選組のみんなを、刀を抜いてでも守ると決めた時点で、これは私が背負うべき傷み――
胸につかえていたものが、ストンと落ちた気がした。深呼吸を一つすると、顔を上げて土方さんを真っ直ぐに見る。
「笑われるかもしれませんが、私は、人に刀を向けるただそれだけのことが、許されないことをしているようで怖いんです。でも、それを恐れて目を背けてしまったら、ここでは守れるものも守れない。人も、自分の想いも全部……それだけは絶対に嫌です」
「なら、どうする?」
「私に人は斬れません。これからも……斬るつもりはありません。それでも、いざとなれば刀を抜くと決めました。斬るためではなく、守るために。今度は、それに伴う傷みが背負うべきものだというのなら、私は背負います!」
「それが、お前の覚悟か?」
きっと、刀を振るう人たちからしたらこんなのは子供の戯れ言だ。それでも、これが私のやり方、私なりの覚悟。
土方さんの鋭い視線をしっかり受け止めると、大きく頷くようにして答えた。
「はい。土方さんたちからしたら笑っちゃいますよね。人を斬る覚悟なんかより遥かにちっぽけな覚悟で。それでも、これが私の覚悟です」
はっきりとそう口にする私に、土方さんはふっと表情を和らげた。
「お前らしくて、いいんじゃねぇか?」
「あの……自分で言っといてあれなんですけど……。新選組の副長ともあろう人が、斬らないなんてこと認めちゃっていいんですか?」
「別に刀で斬るだけが戦い方じゃねぇだろ。俺だって色んな手を使うぞ? 石を投げつけて、怯んだ隙に羽織で絞め落としたりな」
思い出すように話す土方さんは、どこか得意気にも見える。
呆れられて当然と思っていただけに、正直拍子抜けだ。
そんな私の考えまでお見通しとばかりに、土方さんがまたふっと笑った。
「そのよく回る口が舌先三寸で、左之に斬らせてたら呆れてたかもしれねぇけどな」
「……はい」
「守るなんざ口で言うのは簡単だ。だが、お前は自分の力を活かしてやり遂げるつもりなんだろう? なら、それでいいじゃねぇか。ただ、誰に言われたわけでもねぇ、自分で決めたことなら必ず最後まで貫き通せ」
「……はい!」
話は終わりとばかりに、土方さんは文机に向き直った。あれだけモヤモヤしていた心が、今は清々しいほどスッキリと晴れている。
ここは幕末で、刀が装飾品でも象徴でもなく、本来の武器として存在する時代。
いっそ、人を斬る覚悟をしても、誰にも咎められないのかもしれない。
それでも、私は誰も傷つけたくはないし傷ついて欲しくもない。
ただ、散り行く命を救いたいだけ。
だから……それに伴うどんな傷みも受け入れようと、そう思うのだった。
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