【 花の章 】

―壱―

070 近藤さんの湯治

 二月四日。

 この日、去年八月政変時の御所警備の恩賞として、会津公より銀を賜ったらしい。

 とはいえ今はもう二月。あれから半年も過ぎているのに今頃恩賞?

 ……なんて、心の中だけで突っ込んだはずなのに、隣に座る土方さんからの視線が痛い。


 怒鳴る? デコピン? それとも頬っぺた!?

 思わず身構えるも、私たちの正面で胃の辺りを軽くさする近藤さんが、本日何度目かのため息をこぼした。


 今日も会津公のところへ出掛けていた近藤さんが、帰営するなりこうして土方さんの部屋へやって来て、湯治を勧められたという話をしたのがついさっきのこと。

 どうやら会津公も今現在あまり体調がよくないらしく、同じく胃の不調を訴える近藤さんに湯治を勧めたらしい。

 私も土方さんも、近藤さんが近頃胃痛を患っているのを知っているので、ここは湯治でゆっくりするのがいい、と行くように勧めているのだけれど……。


「会津公や二人の気持ちはありがたいが、この程度のことで局長が留守にするというのもなぁ……」


 こんな感じで渋っているのだ。

 無理をして倒れたりしたら大変だし、休める時にはしっかり休んで欲しい。

 それでもなかなか首を縦に振らない近藤さんに対し、土方さんの声が少し大きくなった。


「近藤さん、少しの留守なら俺が預かるって言ってんだ。せっかく会津公も勧めてくださったんだ。喜んで行ってくりゃいいじゃねぇか。それとも何か、俺じゃ不安か?」

「何言ってんだ、歳。そんなわけないだろう。むしろ、俺に何かあったら……歳、新選組はお前に任せるぞ!」

「断る!」

「歳……」


 間髪入れずに断られ、近藤さんはどこかしゅんとした面持ちで胃に手を当てた。

 それを見た土方さんも、ばつが悪そうに頭の後ろを掻きながらため息をつく。


「俺は局長なんて柄じゃねぇんだ。新選組の局長は近藤さん、あんただけだ。あんたに倒れられると、俺が困んだよ」

「歳……」

「だから頼む。こんな時くらいゆっくりして来てくれ。新選組局長の座は、俺がしっかり守っといてやるから」

「……わかった」


 近藤さんが目をうるうるとさせながら頷けば、これにて一件落着、善は急げ、さっそく明日から湯治に行くということになった。

 とはいえ、新選組局長を一人で行かせるわけにはいかず、数人の護衛をつけることになった。


「湯治に行くくらいで護衛なんて大層な……俺は一人で大丈夫だぞ?」

「そんなわけにはいかねぇよ。本当は沢山つけてぇんだが、隊務に支障をきたすわけにもいかねぇからなぁ。誰がいいか……」


 土方さんが考え始める横で何気なく近藤さんを見ると、目が合った途端に微笑まれた。


「それなら、春はどうだ?」

「へ? 私……ですか?」

「うむ。旅行気分で一緒に行こうか」


 旅行!? 温泉!

 突然のことでおかしな声が出たけれど、これは……断る理由なんてないでしょう!


「行きま――」

「こいつは駄目だっ!」


 手まで上げて全力でアピールしようとした私を、土方さんの無慈悲な声が打ち消した。

 それどころか、近藤さんと揃って見つめたにもかかわらず、なぜか私だけが睨み返された。


「なっ、何でダメなんですか!? せっかく近藤さんが誘ってくれてるのに!」

「うるせぇ。お前は駄目だ!」

「だから、何でですか!」

「当たり前だろうが! 駄目なもんは駄目だっ! わかれよ、馬鹿野郎!」


 すぐ人のことをバカバカって言う! 負けじと睨み返していれば、しまいには副長命令だと言い出した。

 けれど、今日はここに近藤さんがいる。近藤さんが局長命令を発すれば、いくら土方さんでも敵うまい。

 期待を込めて近藤さんを見つめれば、何だか温かい眼差しで私たちのやり取りを見ていた。


「そうかそうか。歳、わかったよ。そこまで言うなら春は置いて行く」

「当たり前だっ! 少数精鋭で護衛に当たらせようってのに、こいつじゃ足手まといだ!」


 温泉へ行けないことに一瞬ガックリと肩を落としたけれど、確かに少数精鋭の護衛に私が混じっては足手まといだ……。

 すっかり温泉旅行気分でムキになってしまったけれど、よく考えたら護衛の話だった。


「そうか? 春の剣術の腕は確実に上がってると思うが。俺はてっきり……ああ、いや、何でもない」

「何だ? 言いかけてやめるのはよしてくれ。気になるじゃねぇか」


 局長に誉めてもらえるなんて、お世辞でもちょっと嬉しい!

 ところで、何を言いかけていたのだろう?

 思わず首を傾げれば、突然、土方さんが何かに気づいたように声を上げた。


「おいっ、近藤さん! 勘違いすんなよ!? 誤解だっ!」

「そうムキになるな歳。俺は相手が男であっても歳を応援するさ」

「だから、ちげぇって言ってんだろうがっ!」


 ニヤニヤしながら部屋を出ていく近藤さんを、土方さんが必死の形相であとを追う。

 急に静かになった部屋に残るは私一人。会話の流れから、さすがの私でも気がついた。

 土方さん、またあらぬ疑いをかけられてしまったのね……と。




 しばらくして戻って来た土方さんは、やけに疲れた顔をしていた。


「おかえりなさい。誤解は解けましたか?」

「一応はな。……って、何ニヤニヤしてやがんだ? だいたい、お前が行くとか言うからこうなったんだろうが」

「最初から少数精鋭の護衛だって、はっきりと言ってくれればすぐに諦めましたよ」


 温泉旅行に浮かれていた自分を棚に上げ、土方さんのせいにしたところで大きなため息が聞こえた。


「あのなぁ、温泉に行ってお前は温泉に入るつもりだったのか?」

「そりゃ、温泉に行くんだから入るに決まってるじゃないですか」

「男湯か? 女湯か?」

「そんなの女湯に決まって……って、ああっ!」

「気づくのがおせぇんだよ、馬鹿野郎」


 呆れ返る土方さんから、容赦のないデコピンが飛んできた。


 女の私が男湯に入るわけにはいかず、かといって、女湯に入るところを近藤さんや他の隊士に見つかってしまったら大変だ。

 そもそも、男装したまま女湯に入ろうものなら、違う意味でヤバイじゃないか!

 どうやらついて行かなくて正解だったらしい。






 翌朝、近藤さんは土方さん選出の数名の護衛を引き連れ湯治へと赴いた。

 しばらくの間、土方さんが局長代理を勤めることになるけれど、元々新選組の隊務調整などは土方さんがやっていたので、部屋に籠る時間が増えたくらいで他は特に変わりはないように見えた。

 けれど、ちゃんと局長の仕事分は増えているようで、文机に乗る書状の量は確実に増していた。


 あくる日も、稽古場から戻ると書状に追われる土方さんがいた。

 半年も同じ部屋で過ごしてきたからわかる。たぶん、今話しかけたなら無駄に睨まれる……と、そんな空気が漂っていた。


 不思議と、そんな時に限って厄介事も舞い込んだりするんだよなぁ……なんて思っていたら、本当に舞い込んだ。

 今日の夜の巡察隊の人数が、体調不良を訴える人多数でかなり減ってしまったらしく、代わりの人を立てて欲しいという藤堂さんからの相談だった。

 土方さんが確認に行ったところ、程度の差こそあれ、どうやら本当に体調を崩しているらしかった。

 部屋へと戻って来るなり、一つ大きくため息をつき、どこか諦めた口調で私に伝言を頼んできた。


「平助に、俺が出るって伝えといてくれ」

「えっ! 土方さん、夜の巡察行くんですか?」

「仕方ねぇだろ。他に出られそうな奴が今日に限っていねぇんだから」


 簡単に言っているけれど、土方さんは昨日私よりも遅く寝て、今朝は私よりも早く起きている。明日だって近藤さんがいない分、仕事はたんまりあるはずで。

 これじゃ、土方さんこそ倒れちゃうんじゃ?


「あのー、私じゃダメですか?」

「夜なんだぞ?」

「知ってますよ」

「暗いんだぞ?」

「夜ですからね……」


 私はまだ、夜の巡察には出たことがない。

 夜は昼より危険だと聞いたことがあるけれど……もしかして、今までわざと外されていた?


「夜の巡察に、私では足手まといですか?」

「夜は何かと危険なんだよ。……だが、そうだな。今のお前になら任せてもいいかもな」


 もしかして、刀を抜くことの……痛みを背負うことの覚悟を決めたから?

 理由はわからないけれど、土方さんは、今夜の巡察を私に任せてくれたのだった。

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