029 山南さんと峰打ちの話
落とした竹刀を拾い上げる私に、山南さんが訊いてくる。
「琴月君は、人を斬ったことがあるかい?」
「あ、ありませんっ!」
あるわけない! そんなの、人を殺したことがあるかと訊いているのと同じだ。
「人を斬るのは怖いかい?」
「怖いも何も、そんなこと考えたこともないです!」
殺したいほど誰かを憎んだことなんてない。
それほど憎い人が現れたとしても、そんなことができるとは思えない。
もしも生まれ育った環境が、戦争や紛争の真っ只中にあったなら、生き残るために誰かを殺すという選択にも今ほど抵抗を感じないのかもしれない。
けれど、良くも悪くも平和ボケした私には、どんなに極悪人だろうと、この手で人を殺めるなんてできない。
「そんなに思い詰めた顔しないで。そもそも、君は芹沢さんの意向でここにいると聞いたよ。自分の意思でここに来たわけじゃないんだ、人を斬ることに対して、抵抗や嫌悪感があっても仕方がないからね」
そう言って、山南さんは憂いを含んだ顔で微笑むけれど。
新選組は市中警備の他に、不逞浪士や過激な攘夷志士の捕縛など、現代で言えば警察のような仕事をする組織だ。
相手がすんなり捕縛されてくれればいいけれど、もし刀を抜かれたら、こちらも刀を抜いて応戦しなければならない。武器を持った相手に丸腰で向かうなんて、殺されに行くようなものだから。
それはつまり、新選組の人間にとって刀を振るうのは当たり前ということ。
どうして今まで気がつかなかった?
……いや、気がつかないふりをしていただけ?
そもそも、私がここにいるのは芹沢さんに言われたから?
……本当にそれだけ?
右も左もわからず身寄りがないとしても、本当にここが嫌なら逃げることだってできるはずだ。鍵のかかった部屋にいるわけでも、鎖に繋がれているわけでもないのだから。
けれどそれをしないのは、いつか戻れるまでは、ここで何としても生き抜いてみせると自分自身に誓ったから。
そして、過去の人ではなくなってしまった新選組の人たちを、死なせたくない、助けたいと願ったから。
だから、私は私の意思でここにいるはずなのに……。
「山南さん……。刀を振るえない人間は、新選組にいたらダメですか?」
言葉にしてしまったことを後悔した。
だって、答えなんてわかりきっている。
「刀を抜かずに、話し合いで解決できればそれが一番いいのだけどね」
そう話す山南さんの声は、少し悲しげだった。
「正直言うとね、私も人を斬りたくはないし、ためらうことがないと言えば嘘になる。でもここにいるとね、どうしても振るわなければならない時がある。だから、奪うためではなく守るため、私はそう考えるようにしたんだ。たとえそれが、誰かを傷つけることになってしまっても……」
「守る、ため?」
「物は言い様だよ。斬った相手が死んでしまえば、それは奪ったことと同じだからね。だけど、そうやってどこかで割り切らないと、押し潰されてしまいそうになる……弱い人間だろう?」
人を斬ることをためらわない人なんて、きっといないと思う。斬るたびに、自分の心にも傷を負うのだと思う。
そして山南さんは、誰よりもその傷を感じてしまうのかもしれない。
きっと、山南さんは……。
「誰よりも優しいからだと思います。それは、弱いのとは違うと思います」
「はは。そんな風に言ってくれる君の方が優しいと思うよ。本当はね、こんな話を君にしている時点で、私はずるくて弱い人間なんだよ」
最後はよく聞き取れなかった。
稽古場に吹き込んだ風が、半分だけ下ろした山南さんの髪を揺らし、その声まで拐って行ったから。
舞い上がる小さな埃が、射し込む光を反射させキラキラと輝いている。そこに見える山南さんの姿は、このまま消えてしまうんじゃないかと錯覚してしまいそうなほど儚い。
もしも平和な現代に生まれていたら、こんな風に儚げに微笑むこともなかったんじゃないのかな……とそんなことを思った。
――
脱走という隊規違反を犯して、切腹させられてしまうんじゃなかったっけ。脱走理由までは覚えていないけれど。
そんな記憶を手繰り寄せる私に、山南さんが予想もしない質問を投げかけてきた。
「峰打ちって知ってるかい?」
「えっと、こうやって刀を返して、刃ではなく峰の方で打つやつですか?」
時代劇で見たような記憶を呼び起こし、刃に相当する部分を返して握り直す。
そのまま軽く打ち込む動作をしてみせれば、山南さんは優しく微笑みながらも首を緩く左右に振った。
そして、自分の竹刀を構えると、そのままゆっくりと私に向かって袈裟斬りの動きをする。
「あっ」
一瞬の出来事だった。
目で追っていたその竹刀は、切っ先が私の左肩に当たる直前でひっくり返り、そのまま斬りつけていった。
ゆっくりだから気づいたけれど、そうじゃなければ気づかなかったかもしれない。
「ただ峰で打つのではなく、こうして直前で刃を返すことで、相手や周りに斬られたと思わせて戦意を喪失させるんだよ」
「戦意を、喪失?」
「峰で手を打って刀を落としたり、柄の部分を相手に押し込んだり。戦意を削ぐだけなら、斬らない方法もあるという話かな。本気で向かってくる相手に対して、それが正しいかは別にしてね」
いざ敵を前にして、そんな余裕はないのだとも言って苦笑した。
「ただね、ここにいる以上、刀を抜かなければならない時は必ず来る。だけど、今の君には斬る覚悟も、斬られる覚悟もまだ持ち合わせていない。そんなんじゃ、斬っても斬られても残るのは後悔だけだ。君にそんな思いはして欲しくない」
山南さんには全て見抜かれていると、そう思った。
新選組にいたいと願いながら、刀を振るう覚悟などないこと。今後も持てはしないだろうということも。
だから、峰打ちという斬る以外の方法を教えてくれたのかもしれない。
そのあとは私に稽古をつけてくれて、場内にさす光が赤みを帯びた頃、揃って稽古場を出た。
「ありがとうございました。あの、うまく言えませんが、少しだけ前を向けたような気がします。それと、失礼な態度をとってしまってすみませんでした」
「気にしてないよ。機嫌が悪いのを承知で声をかけたのはこっちだからね。それより、何かあったら一人で溜め込むのはよくない。私でよければいつでも相談にのるから」
そう言って、山南さんは私の肩をポンと叩いた。
土方さんが言っていたように、山南さんは温厚でとても優しい人だった。そう思いながら、去って行く背中にもう一度深くお辞儀をした。
山南さんが声をかけてくれなければ、きっと負の感情に捉われたまま、ただ木刀を振り回していただけだ。
たとえ一時の時間でも、そこから這い出せたことには大きな意味がある。
新見さんや芹沢さんのことは悲しくて悔しいことだけれど、そこに捉われたままではいけない、何も変わらないのだと気づいたから。
芹沢さんの暗殺命令は下ってしまったけれど、まだ実行されたわけじゃない。
だから、絶対に最後まで諦めない。そう強く思いながら、芹沢さんのもとへ足を運ぶのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます