019 芹沢さんと火鉢
井上さんと屯所へ帰ってくるも、夕餉の支度まではまだ少し時間があった。
少しだけ芹沢さんのところへ寄るべく、八木邸へ向かい庭の方から部屋を覗くと、案の定お酒を飲んでいた。
「芹沢さん、お酒やめてください!」
「お前、俺の顔見るとそればっかりだな。たまには違うこと言ったらどうだ?」
「いつ見てもお酒ばっかり飲んでるからじゃないですか!」
時々こうして様子を見に来るのだけれど、部屋にいる時はいつも飲んでいる。
「煩い奴め。そんなことより、そこに置いてある火鉢を八木さんに返して来い」
そう言って、杯を持った手で指し示すのは、縁側の隅に置いてある大きな火鉢だった。
「酔ってるんですか? 返すも何も、芹沢さんがいるのは八木さんの家ですよ? 自分ですぐ返せるじゃないですか」
新選組は、ここ八木邸と向かいの前川邸を屯所として使わせてもらっているけれど、八木さんは最初、離れだけを使わせていたらしい。
けれど、いつのまにか芹沢さんとその取り巻きたちが母屋の一角に上がり込み、占領して今に至る……と。
前川邸も元いた住人は他のところに移ったと聞いたし、そんなんだから壬生狼なんて呼ばれちゃうんじゃないのか?
それでも八木さんは、何かと隊士たちによくしてくれるらしい。私はまだ挨拶程度しかしたことがないけれど、ハキハキとした良い人だなという印象だ。
「芹沢先生が返して来いと仰ってるんだ。突っ立ってないで早く行って来い」
そう言ったのは、席を立っていたらしい平山さんだった。私に対する態度とは打って変わって、さも当たり前のように芹沢さんにお酌をし始める。
この人……
他にも、
そんなことを考えている間にも、芹沢さんの杯には何度もお酒が注がれていく。
芹沢さんにあまりお酒を飲ませないで下さい!
……と、喉元まで出かかった言葉は呑み込んで、大人しく火鉢を運ぶことにした。
だって、平山さんの睨んだ片目が物凄く怖かったんだもの! 今のあれは、確実に土方さん以上だった。
刀を持つ人の特性なのか、目だけで人が殺せるんじゃないかと思うくらい、この時代の人たちの目力は凄まじい瞬間がある。
「芹沢さん、これ重いんですけど……って、あれ? 何でここ切れてるんですか?」
その火鉢には、まるで刀で斬ったかのような十センチほどの切り込みが入っていた。
不意に、背後から驚きと怒気を含んだ声がした。
「あっ! 何でここ切れてるんや!? あんたがやったんか?」
驚いて振り返ると、そこには八木さんが立っていた。慌てて私じゃないと訴えるも、芹沢さんがニヤニヤとしながら信じられないことを口にした。
「春、駄目じゃないか」
「は? えっ、ちょ、ちょっと、芹沢さん!?」
「あんた、春、言うんか。全くあんたらは何でもかんでも試し斬りしよってからに」
試し斬り!? まさか、みんな色んな物で試し斬りしているのか? 八木さん家の物で!?
何て迷惑な連中なんだ!
……って、八木さんと初めての会話らしい会話がお小言とか。しかも、思いっきり濡れ衣って!
「ご迷惑をおかけしてすみません……。でもこれは……私じゃないです!」
妙に申し訳なくなって代わりに謝ってしまったけれど、やっぱり火鉢の濡れ衣までは被れない!
「ん、あんたちゃうんか? ほな誰や?」
八木さんが全員の顔を見渡しながら言った。
うん、私も犯人が知りたい。濡れ衣被ったままは嫌だ。
「あー、俺だ、俺だ」
声の主は、いつのまにか身支度を整えた芹沢さんだった。
……って、犯人は芹沢さんだったのか!
白状するなり、豪快に笑いながら玄関の方へ行く。
「どこ行くんですか!? 逃げないでください、芹沢さん!」
「煩いぞ、琴月! 芹沢先生はお出掛けになる。邪魔をするな!」
またしても平山さんに睨まれた。
それ以上の言葉を飲み込めば、芹沢さんのあとを追って一緒にどこかへ行ってしまった。
何だか無性に腹が立ってその場で立ち尽くしていると、背後から八木さんに肩を叩かれた。
「どうせまた島原にでも行ったんやろ。春、言うたっけ? 何やあんたも大変やな」
そう言うと、八木さんも火鉢を抱えて行ってしまった。その背中を見送りながら大きなため息をつけば、今度は玄関の方から綺麗な女性が現れた。
「あっ、琴月はん? もう具合はええの?」
女性は私の側まで駆け寄ると、庭に立ったままの私と目線を同じ高さに合わせるように縁側で膝をつき、私のおでこに掌を当てる。
綺麗な仕草に思わずドキッとするけれど、その手は少しだけひんやりとしていて、私の冷静さを繋ぎ止めた。
「だ、大丈夫です。ご心配をおかけしました……」
すぐに手は離れていったけれど、少し前、私はこの人に八つ当たりにも似た形で接してしまったので、こうしてまた心配してくれることが気まずい……。
「そういえば、うちまだ名前言うてへんかったね? うちは
「――あっ」
その瞬間、兄と交わした会話が一瞬にしてよみがえった。
『一緒にいただけで殺されたんだから、可愛そうだよな』
『そうだね』
珍しく、兄の新選組語りに同調した記憶。
……思い出した。お梅さんは、土方さんたちが芹沢さんを暗殺する時に、一緒に殺されてしまう女の人の名前だ。
胸の辺りがざわざわして落ちつかない。芹沢さんから離れて、逃げてと伝えたい。
でも、きっと信じてはもらえない……。
黙り込んでしまった私に向かって、お梅さんが少しだけ残念そうに言う。
「芹沢はん島原に行ってもうたね。これ、買うて来たんやけどなぁ」
これ……とは、その腕に抱えているお酒のことだろうか。
お梅さんと芹沢さんはどういう関係なのだろう。綺麗な女性がこの母屋に入り浸って、しょっちゅう芹沢さんと一緒にいると誰かが言っていたけれど。
それってお梅さんのことで、つまり、そういう関係なのかな。
だったら、側にいるお梅さんが芹沢さんのお酒をとめてくれたらいいのに。あんな無茶な飲み方をしていたら、身体に悪いことくらい一目瞭然なのに。
私の考えていることが伝わってしまったのか、お梅さんがその綺麗な顔を少しだけ歪めて微笑んだ。
「琴月はん、芹沢はんお酒が大好きなんよ。そやから好きなだけ飲ませてあげたって? ね?」
「別に、一口も飲むなとはいいません。量が問題なんです。ずっと飲んでませんか? いくらなんでも飲みすぎです。身体にだって悪いです」
お酒は百薬の長というくらいだから、適量を飲む分には何の問題もないと思う。
けれど、芹沢さんのあの飲み方は毒でしかない。
「そうやね。そやかて……もう」
「……もう?」
「ううん。何でもあらへん。我慢ばっかりしとったら、そっちのが身体に悪いわ」
「なっ、何言ってるんですか! 本気で芹沢さんの心配してるなら、お酒なんてやめさせてください!」
思わず声を荒らげてしまった。
だって、おかしいよ。芹沢さんのことが好きなら、大切なら、どうしてあんな無茶な飲み方を放っておけるの?
こんなんじゃ、暗殺を回避したって身体を壊して死んじゃうかもしれないのに!
けれど……私が知っている結末は、暗殺によって二人が亡くなってしまうということ。
だから、芹沢さんのお酒をやめさせて、暗殺の命が下らないようにしなければならない。そうすれば、この梅さんのことも同時に救えるはず。
「とにかく、お酒やめさせて下さい!」
それだけを言い残して、逃げるようにその場をあとにした。
あのままいたら、感情のまま余計なことまで口にしてしまいそうだったから。
私に出来ることなんて限られている。
この日から、毎日のように空いた時間には芹沢さんのところを訪れて、どんなに疎ましがられてもお酒をやめるように言うのだった。
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