彼女の落し物癖
橘花やよい
彼女の落し物癖
僕はその時いじめられていた。
最近はいじめが原因で自殺、なんてニュースをよくみる。世間はいじめというものによく反応をするようになった。
けれど、いじめなんてニュースに出ていないところで、どこにでも、いくらでも存在すると思う。
人間、そりが合わない相手がいないなんてことはないはずだ。どれだけ優しい人でも、嫌いだとか苦手だとか、そういう感情は絶対抱くと思う。そんな感情とは無縁というなら、その人はもう人間ではなく神のようなものだ。
その感情を表に出すかどうかが賢い人と馬鹿な人の違いなのだろう。
しかし、学生という未成熟な子ども社会では、そんなに賢い人はいない。いじめが存在しない学校なんてあるのだろうか。
とはいえ、僕は暴力を受けるようないじめの経験はなかった。
陰でこそこそと何かを噂されたり、グループ決めのときにはぶられたり、話しかけても聞こえていないふりをされたり。それくらいだった。
そういうことは、多分珍しいことじゃないと思う。クラスに一人くらいはそういう残念な人間は生まれてしまうものだろう。僕の学生生活を振り返ると、そう思う。
きっと暴力がないぶん、僕はまだマシだったのだ。ニュースだともっと酷いいじめを見る。
それでも、全く僕にダメージがなかったのかと言われれば、そうでもないのだけれど。
クラスに一人、よく物を落とす子がいた。
抜けているのか、わざとなのか、本当によく物を落とす。シャーペン、消しゴム、ハンカチ、自転車の鍵、下敷き……、彼女はいつも何かを落としては探して歩いていた。
僕はそんな彼女が物を落とす場面に頻繁に出くわした。よくもこれだけ落とすものだと、感心するほどだった。
最初のうちは、僕は彼女を見ているだけだった。でも、本当に、とてつもない頻度で、彼女は僕の目の前で物を落とすのだ。
僕はどうしようかと迷った。そして結局、彼女に声をかけた。
「あの、これ落としたよ」
その時は三色ボールペンだった。
彼女は振り向いて、少しびっくりしたような顔をした。
「あ、ありがとう――!」
そして彼女ははにかんだ。
「あれさ、わざとなんだ」
僕は高校を卒業した。大学も卒業して、四月から社会人となる。
三月最後の週に、僕は彼女と河川敷を歩いていた。桜がとても綺麗だと思った。
そんな折に突然彼女が高校の時の話をするから、僕は柄にもなく過去を思い出して懐かしんだ。
「わざとって何が」
「だから、君の前で物を落としまくったこと」
「あー、なんとなくわかってた」
「話しかけてほしかったんだもの」
彼女はのんびりと歩いた。舞い散る桜の花弁が彼女の髪にひっかかって、僕の目線はそこに注がれる。彼女が歩くたびに髪がゆるやかに揺れる。あ、落ちた。
「そんなの、そっちから話しかけてこればよかっただろ」
「だって、ほら、恥ずかしいじゃない。それに、私が話しかけても無視してきたのは君でしょ」
「そうだっけ」
「そうよ」
覚えていない。
でも、そう。僕はあの時、少しだけ人間不信だった。人と話すことが億劫だった。だから、もしかしたら彼女の声を聞かないふりをしていたのかもしれない。
そんな僕が彼女に声をかけたのは、やっぱり彼女が物を落としすぎたからだ。あまりにもたくさん落とすから無視することができなくなったのだ。
「君の執念深さに僕が根負けしたんだな」
「ふふ、私の勝ち。――あ、みてみて、猫だ」
桜の木の下に猫がいた。彼女はスマホで写真を取ろうと思ったのか、ポケットに手を突っ込む。スマホを引き抜いた瞬間、鍵が滑り落ちた。
「あ、猫いなくなっちゃった」
「ああ、ほら。また落としてる」
彼女がスマホを構える前に、猫は走っていってしまった。
僕は鍵を拾った。
「これもわざとですー」
「嘘つけ。ほら、今度は落とすなよ」
今回はわざとなのかどうなのか、僕には分からない。高校生のとき彼女が意識的に僕の目の前で物を落としていたのは本当だと思う。でも、彼女の落とし癖も本物だと思う。
「わざとだってば。――ありがとう」
そして彼女ははにかんだ。
僕はあの時人間不信だった。だから彼女がお礼を言ってくれたことがひどく嬉しかったのを覚えている。
僕は彼女が「ありがとう」と言って、はにかむのが好きだ。
だからこれからも、ちょっと困るけれど、彼女の落とし物を拾ってあげようと思うのだ。
「あー、だから、また落としてるって!」
「わざとわざと。ありがとうー」
それにしたって、限度というものはあるだろう。
彼女の落し物癖 橘花やよい @yayoi326
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