黒いアイツに恐怖するまきの話

 その日は唐突にして突然、何の前触れもなく訪れた。


 まだ夜明け前の、朝日も昇っていない時間帯。シノが武器の手入れをしていると、バンと扉が開いた。

「せ、先輩ぃぃ」

「ま、マキ?」

 寝間着姿のマキは、いつもより弱々しかった。

 ふるふると小さく震えて、目尻には薄らと涙の跡があった事が分かる。

 怖い夢でも見てしまったのか、とシノが武器を置いてマキの方へ歩いて行くと、彼女から駆け寄って抱きついてきた。

 こんな事、〈蒼月の弓矢〉の頃の彼女がおねしょした時に泣きついてきた時以来である。シノは内心慌てながらも、優しく背中をさすってやった。

「ど、どうしたんだよ、マキ」

「と、トイレにぃ、あ、あいつがぁ!!」

 シノはそれを聞いて眉を寄せ、ははあと納得した。

「蜘蛛?どうせ大した大きさじゃないんでしょ?」

「ちちち違う!!黒いアイツだよっ」

「しっ。ユイ寝てるんだから。声大きいよ」

 シノにそう言われ、マキは目を見開いてそれから小さく「ごめん」と呟いた。

「で、ゴキブリ出たんだね?」

 そう言うと、マキはグッとシノの胸倉を掴んだ。それは日頃の温和な彼女からはあまり想像出来ない荒々しさだった。

「ひ、人が忌々しいアイツの事を呼ばなかったのに...っ!何でそうあっさりと先輩は...っ!」

 マキは目尻に涙を浮かべている。余程あの存在が嫌なのだろう、とすぐに理解出来る。

「とにかく、対処しにいくから。トイレの前に居て」

「無理っ、無理無理!あんな場所に居れないですよ!」

 マキの反応に、シノは溜息を吐いた。


 マキは虫が苦手だ。小指の爪の大きさの虫ならば彼女一人でも対処するが、それ以上の大きさになると、シノがよく対処してやっていた。

 特に嫌いなのは、ゴキブリとバッタ。その理由は詳しくは知らないが、ゴキブリに関してはよく分かる。人間の中でそれと仲の良い人間などいないであろう。

 数年前に一度だけ、自分で対処してみろとシノが提案した事がある。その際に、セミを撃ち殺そうとして、危うくメンバーの一人を狙撃しかけた事があるので、それからはシノが片付けている。

 もし同業者がこの秘密を知ったなら、恐らく意外に思う人間も居るだろうな。シノはぼんやりと考えていた。


 殺虫剤を手に、二人でトイレへ向かうと、

「シノ?マキさん?」

 寝ぼけ眼でふらふらと歩いて、ユイがやって来た。

「あー...、ユイ。起こしちゃった?」

「んんん」

 ユイは目の下を擦りながら首を振るい、それから怯えた様子のマキの方へ目を向けた。

「マキさん、怖い夢でも見たの...?」

「怖いヤツが出たの!」

 マキの返答にユイは首を傾げる。分かっていない様子に、シノはユイへ小さく耳打ちをした。

「ゴキブリだよ、ユイ」

 それを聞いてユイは目を丸くした。それからぺたぺたとトイレの方へと歩いて行った。

 それから「えいっ」という声が聞こえた。

「ユイ?!」

 シノがトイレの方へ向かうと、両手を合わせているユイが立っていた。トイレの床に黒光りするあいつは見えない。

 何となく、シノは察してきていた。

 それでも一応聞いておかずにはいられなかった。

「ユイ...あのさ...、ゴキブリ、捕まえた?」

 ユイはこくりと素直に頷く。手を開こうとしなかったのだけ、シノは心の中で感心していた。

「僕の居たところ、よく出てたから...」

 ユイはふわふわした口調のまま、玄関の方へと行ってしまった。

 シノはユイの意外な男の子らしい一面を感じながら、後ろに居るであろうマキの方を振り返った。


 彼女は壁にもたれかかったまま、全く動かなかった。身体だけでなく、瞳も一切動かなかった。


「ま、マキッ!?」


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Knight Killers~幽冥へ駆ける者達~ 本田玲臨 @Leiri0514

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