第6章

第29話

 その日は、あっという間にやってきた。

 朝から念入りに準備をして、待ち合わせ時間の10時よりも少し早く家を出た。

 家を出る前に「いってきます」とリビングにいたお父さんと百合さんに声をかけると、数日前に生まれた妹の咲良の世話をしながら「いってらっしゃい」と言われた。

 咲良を抱いた百合さんのそばにたたずむお父さんの姿は幸せそうで、そこに私の姿がなくても問題なくて、三人は自然なほど家族だった。

 少しも寂しくないといえば嘘になる。でも、ほんの少しだけホッとしていた。私なんかいなくても大丈夫だと、そう思えたから。

 玄関のドアを閉めて、外に出ると大きく深呼吸をして冷たい空気を吸い込んだ。

 心臓が苦しいぐらいにドキドキしている。

 いったいこのあと、何が起きるのか私にもわからない。ただ、わかっているのはどんな状況であれ事故が起きるということだけ。

 辺りを見回すと、昨日の夜降ったのであろう雪がまだ少し道路の脇に残っていた。三ヶ月前は紅葉していた街路樹も、今じゃあかろうじて残った何枚かの歯を残すだけとなっていた。

 私は深呼吸を一つすると、待ち合わせ場所である駅へと急いだ。


「おはよう」

「……おはよう」


 駅にある時計の下に、和臣君が一人立っていた。

 ジッと見ていると「なんだよ」と和臣君が言ったので「カッコいいなと思って」と返すと、黙ったままそっぽを向いてしまった。

 それっきり話すことのないまま、待ち合わせ時間の十時を迎えた。けれど、待ち合わせ場所には誰も来ない。

 それもそのはずだ。だって私が昨日のうちに果菜ちゃんと雪乃に、今日和臣君に告白するから先に遊園地に行っていてくれないかと相談をしていたのだから。

 二人は二つ返事で了承してくれた。今頃、遊園地に向かう電車にコタ君や斗真君と一緒に乗っているはずだ。

 でも、私は何も知らないふりをして和臣君に言った。


「みんな、遅いね」

「そうだな」

「どうしよっか」

「もう少し待つか」

「うん」


 十時十五分を過ぎた頃、一通のメッセージが私と和臣君に同時に届いた。

 それは、先に電車に乗っているコタ君からのものだった。


「琥太郎からメッセージ来た?」

「うん、もう電車の中だって」

「なんで先に行ってるんだよ」


 呆れた様子でため息をつくと、頭を掻いてそれから和臣君は言った。


「他のみんなももう電車の中みたいだし、俺たちも追いかけようか」

「うん」


 チラリと時計を見ると、10時20分を過ぎた頃だった。もうすぐだ……。

 おそらく同じことを考えているのだろう、和臣君は急ぎ足で駅の中へと入って行った。

 その後に続くように私も歩く。

 駅の中はほどほどに混雑していて、私たちは遊園地方面に行くホームで待つ人たちをよけながら電車を待った。


「俺、さ」

「え……?」


 和臣君の、声のトーンが変わったのを感じた。

 もしかしたら、駅の中なら車が来ることはないと、そう思ったのかもしれない。今までのとげとげとした雰囲気がなくなって、あの頃の、私たちが付き合っていた頃のような和臣君がそこにはいた。


「嫌な態度、いっぱい取ったよね。……ごめん」


 隣に並んだ和臣君は、手を伸ばすとそっと私の手を掴んだ。緊張からだろうか。その手は、ひんやりと冷たかった。

 小さく息を吐いた後、和臣君は話しはじめた。


「怖かったんだ、瑞穂をまた失うのが」

「怖かった……?」

「そう。あの日、瑞穂が俺を庇って車に轢かれて、救急車が車でずっと瑞穂のことを抱きしめていた。冷たくなっていく瑞穂の身体を、ずっと。どんどん血が流れて、だんだん動かなくなっていって……」


 和臣君の手が、小さく震えているのに気付いた。

 手だけではない。顔色も悪いし、真冬だというのに額にはうっすらと汗をかいてさえいた。

 けれど、和臣君は流れ落ちる汗を拭うことなく話し続けた。


「瑞穂がいなくなってから、ずっとあの瞬間のことを思い出していた。どうして俺じゃなくて瑞穂が死ななきゃいけなかったのか、なんで俺を助けたのか、どうして瑞穂が今隣にいないのか、ずっとずっと考えていた」


 今までためていたものを吐き出すかのように、和臣君は話し出した。ギュッと握りしめられた手が、痛い。でもこの痛みの何倍も和臣君の心は痛かったんだと思うと、何も言えなかった。

 隣に立つ和臣君の顔は、苦痛に歪んでいるように見えた。その表情に、私がしたことでどれほど和臣君を苦しめてきたのかを思い知らされるようで……。私は俯いて、その表情から顔を背けた。


「瑞穂と一緒に行った場所、瑞穂と一緒に見たもの、どれもが瑞穂に繋がって、苦しくて、寂しくて、悲しくて、辛くて……。大人たちは元気出せって、そんな顔していたら瑞穂が悲しむぞって無責任なことばかり言って。学校のやつらは反対で、まるで腫れ物に触るかのように扱ってくる。全部が鬱陶しくて気持ち悪かった」

「和臣くん……」

「瑞穂の後を追って死んだら楽になれるんじゃないかって思うこともあった。飛び降りたら瑞穂のところに行けるんじゃないか、このまま飛び出したらこんなふうに苦しまなくて済むんじゃないかって。でも、瑞穂が守ってくれた命だと思うと、それもできなくて……。結局、俺は生きることを拒否して、でも死ねないまま中途半端に生きていたんだ。あの日まで」


 繋いだ手をギュッと握りしめると、和臣君は私を見た。

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