第12話

「お邪魔します」


 久しぶりの和臣君の部屋は、事故の前に来た時と同じで綺麗に整頓されていた。

 男の子の部屋とは思えないほど片付いた部屋は、私の部屋とは大違い……。一回だけ、和臣君が遊びに来てくれた時も、前の日の夜から片付けて、気付いたら寝るのがいつもより3時間も遅くなっちゃったんだっけ。


「そこ、座ってて」


 床に置かれた小さな机の横にクッションを置くと、和臣君は部屋を出て行ってしまう。

 私は机の前に座ると、そのクッションをギュッと抱きしめた。

 ふんわりと香る臭いは和臣君と同じ洗剤の匂いで、まるで和臣君を――。


「瑞穂?」

「あっ! ご、ごめん!」


 気が付くと、いつの間にか戻ってきていた和臣君が、不思議そうな顔で私を見つめていた。

 お盆に乗せたグラスを机の上に置くと、和臣君は小さく笑った。


「そのクッション、気に入ったの?」

「そ、そういうわけじゃないんだけど……。その、抱き心地が良くて」

「そうかな?」


 私の手からクッションを取ると、和臣君はそれをギュッと抱きしめた。


「そんなに違うかな? んーでも」

「でも?」

「なんだっけ、これ……。あ、そっか」


 クッションを隣に置くと、和臣君は私に手を伸ばした。


「え……?」


 髪の毛に触れると、顔を近付けて、それで……。


「か、和臣君!?」

「瑞穂の使ってるシャンプーの匂いかな。クッションからも同じ臭いがする」


 手を離した和臣君は、身動き一つとれずにいる私になんて気付くことなく「あ―スッキリした」なんて言って笑っている。

 私はというと、恥ずかしさと、和臣君に触れられた感触が忘れられずに、赤くなる頬を隠すので精一杯だった。


「瑞穂?」

「な、なんでもない! 課題! 課題しよっか!」

「う、うん」


 慌てて買ったノートを取り出して机の上に置いた私に、和臣君はペンケースから取り出したシャープペンを手渡してくれた。


「あ……」

「どうかした?」

「ううん、なんでもない」


 あのシャープペンだ。

 和臣君に手渡された、木星のアクセサリーがついたシャープペンを握りしめながら思い出す。

 二人で勉強をした帰り道、シャープペンが壊れたからと文房具屋さんに寄った和臣君が見つけた色違いの宇宙がモチーフになったシャープペン。

 あまりにも気に入ってしまった私に、和臣君がプレゼントしてくれたんだっけ。私が木星を、和臣君が土星を。まるでお揃いのようで喜んだのを覚えている。

 でも、あれを買うのは明日のはずなのに、どうして。

 それに、和臣君が買うのは土星だったはず――。


「……それ、気に入った?」

「え?」

「ジッと見ているから」

「木星のアクセサリーがついてて可愛いなって思って」

「そっか。……じゃあ、それあげるよ」


 唐突に言うと、和臣君はペンケースの中から別のシャープペンを取りだした。

 それは、あの土星がついた、和臣君が買うはずのシャープペンだった。


「どうし、て……」

「こっちが欲しかったんだけど、二本セットでしか売ってなくてさ。だから、瑞穂が気に入ったならもらってよ」

「そ、そんなの……」


 だって、それじゃあ……。


「いいんだって。俺どうせそれ使わないし。ペンケースに入ったままになってるぐらいなら、瑞穂が使ってくれる方が嬉しい」


 和臣君は、ほんの少し照れくさそうに笑う。

 そんな彼に「いらない」なんて言うことはできなかった。


「あり、がとう」

「どういたしまして」


 声が震えていることに気付かれないように、平静を装ってそう言うと手の中のシャープペンを見た。

 シチュエーションは違う。けれど、以前と同じように私の元にやってきたシャープペン。

 どうして……。


「それじゃあ、はじめようか」

「うん……」


 私たちは時々質問し合いながらも、黙々と数学の課題を終わらせていく。

 なるべく意識しないように、そう思えば思うほど左隣にいる和臣君のことが気になって仕方がない。

 悩んだときに口元に手を当てる癖、解けたときの嬉しそうな表情、そのどれもが愛おしくて、泣きたくなってくる。


「瑞穂?」

「ど、どうしたの?」

「瑞穂こそどうしたの? 俺の方をジッと見てさ」

「べ、別に……」


 気付かれていたことが恥ずかしくて、慌てて視線をノートへと向ける。あと半分ほどで課題は終わる。そうしたら……。


「それが終わったらさ、こっちお願いしてもいいかな」


 和臣君は、一枚のプリントを取り出した。

 それは、昨日数学の小テストだった。

 どうしてだろう。


「瑞穂?」


 どれだけ抗おうとしても、まるで決まっている答えに向けて進むかのように、物事が動いていく。

 ……もしかして。


「ご、ごめん。用事を思い出したから帰るね」

「あ! 瑞穂!」


 机の上に広げたノートを袋に入れると、私は立ちあがった。

 急な出来事に、何があったのかと和臣君は私に声をかけて腕を掴んだ。


「瑞穂? どうしたの? 大丈夫?」

「だいじょう、ぶ。だから、離して……」

「大丈夫って顔してないよ。真っ青じゃないか」

「離し、て……」

「……離さない」


 振りほどこうとした手は固く握りしめられていて、私の力ではどうすることも出来ない。

 そのまま引き寄せられると、私の身体は和臣君の腕の中に包まれていた。


「なっ……」

「大丈夫だから。このまま、落ち着いて。ゆっくり息を吸って」


 和臣君の声が、耳元で聞こえる。


「やっ……」

「瑞穂。大丈夫、大丈夫。落ち着いて」


 優しい声が耳に響く。

 その声と、抱きしめられた身体に伝わってくる和臣君の心臓の音が、私の落ち着きを取り戻していってくれた。


「――もう、大丈夫」

「本当に?」

「うん……。急に、取り乱してゴメン……」


 そっと離れた私は、恥ずかしさのあまり和臣君の顔を見ることができない。

 手を繋いだままベッドに座ると、私はもう一度「ごめんね」と和臣君に言った。


「謝らなくていいけど、でも何があったの?」

「それは……」

「言えない……?」

「うん」

「そっか」


 私の言葉に小さく呟くと、和臣君は黙り込んでしまった。

 あんな態度を取った挙句、何も言わないだなんて呆れられてしまっただろうか。あんなに心配してくれていたのに、何も言えないだなんて……。

 でも、和臣君は優しく微笑んでくれた。


「言えないこともあるよね」

「え……?」

「もし言える日が来たら話してくれたら嬉しい。あんなふうになっちゃうなんてよっぽどのことだと思うし、やっぱり心配だから。でも、話さなかったって別に俺が瑞穂のことを嫌うとかそういうのはないからね」

「どうして……」

「どうしてって、当たり前じゃない。自分が勝手にした心配を人に押し付けて、それで話してくれないなんて! っていうのは、心配じゃなくてただのエゴだよ」


 和臣君は、繋いだ手とは反対側の手を私の方に伸ばすと、いつかそうしてくれたように頭をポンポンとすると優しく撫でた。


「だから、瑞穂は何にも気にしなくていいんだよ」


 その言葉に涙が零れ落ちそうになったけれど、これ以上和臣君を心配させるわけにはいかない。

 私は「ありがとう」と言うと、泣きそうになるのをこらえて微笑んだ。



 夜、ベッドの上に寝転がりながら、私は考える。

 結局、私がどれだけ抗おうとあの頃とは違う行動をしたとしても、結果は同じことになっている。

 つまり、このまま形を変え、あの事故は起きてしまうのではないか。

 私が、隣にいなかったとしても。

 そうなったとき、死ぬのは私ではなく――。


「そんなの、嫌だ」


 また、私だけが生き残ってしまう。

 あのときのように、お母さんを犠牲にして生き延びたあの時のように。

 そんなの、嫌だ。

 あんな思い、もう二度としたくない。

 あんな思いを、もう一度するぐらいなら――私が、もう一度死ぬ方がいい。

 そのためには、このままじゃいけない、そう思った。

 どうやってもあの事故が起きてしまうというのなら、そのときは私も一緒にいなくちゃダメだ。そしてもう一度、私が和臣君を助けるんだ。

 たとえそれでもう一度――私が、死ぬことになったとしても。

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