3

 しかしながら事態は大きく変わりつつあった。

「いいか、人間を攫ってくるなどと大事のように考えてはいかん。天才音楽家といえども、あの忌々しい男の私有財産に過ぎん。少し大きい宝石を取ってくるくらいの気持ちでやってくるのだ。決して悪いことではない。音楽家を開放してやることなのだ。善行なのだ。躊躇せずに、ただし怪我をさせるような真似をしてはならんぞ。財産に過ぎないといえども大事な音楽家なのだからな。ではお前たち二人に任せるぞ」。そう言って議員は自分の部屋へと引き上げていった。


 議員の屋敷がある通りから酒場がひしめきあう通りまで出てくると、さきほどまでの静けさが嘘のように、夜もとっくに更けているにもかかわらず、あちこちから騒がしい声が飛んでくる。男たち二人は、議員の屋敷の静かな一室で交わされた約束を実行に移すことに対する不安によって、引き寄せられるように、街で最も騒がしい酒場に入っていった。隅のほうの席に座り、彼らは声を潜めて話し合った。あたかも、彼らの声が酒場の騒音によってかき消されたならば、彼らの会話のみならず、彼らの計画さえも誰にも知られることなく、すべて上手く運ぶかのように。

「お前は、こう……やったことがあるのか?」

「そんなことあるわけねえだろ。お前はどうなんだ?」

「俺もないさ。だが……やるしかないだろうな」

「そうだな。それにこれだけの金をもう貰っちまった。やればこれが倍になる。やる以外に選択肢はあるか?」

「ない。ないのだ。ないのだが……」

「ないならやるしかないんだ。明日だ。今日は美味い酒を飲もう。飲めばやっていける。やっていくには飲むしかない」

「そうだな、飲もうか。やるということ以外忘れちまおう。いや、忘れなくてもいい、酒の力を借りて、いいことをやるんだと思い込めばいいんだ」

「思い込む必要なんかない。お前は新聞を読まないのか? 新聞に偉い人が書いていただろう。音楽家っていう素晴らしい人間が一人だけのものになってちゃいけないんだ。しかもそれを独り占めしているのがあの人でなしのXXだぜ。議員の旦那も言っていただろう。俺達はそこから音楽家を開放してやるんだ。盗みとか人攫いとか、そういうんじゃねぇんだ。善行なんだ。これはみんなに対する貢献なんだ。思い込まなくとも、いいことなんだよ、いいことなんだ」

「そうだな、いいことだ。違いない。今日はどんどんやろう。いい酒だ。旦那のおかげでいい酒が飲める。いいことをやって金が貰えていい酒が飲める。こんないいことが他にあるか?」

「ない。ほら、もっと飲め、俺ももっと飲もう。今日も明日もいい日だ、いい人生だ!」

 そうして彼らは酒に酔って、いつのまにか席を店の隅から中心の方へと移し、大声で叫びながら酒を呷り、「いい酒だ!」「いい日だ!」「いい人生だ!」と歌い続けたのであった。


 *


 普段の生活の中で物乞いの音楽を聴いていても、彼の音楽のあの核の部分は、演奏会での演奏の際ほどはっきりとした形でXXに感じ取られることはやはりなかったのであった。この世のものとは思えないほど美しい花でも、深い霧の中に埋もれてしまうとわずかにその色がどのような色であるのかがようやく分かるくらいに留まってしまうというように、XXも物乞いの音楽の中心に潜む、何か素晴らしいものの正体も、ヴェールに覆われてしまっているかのようにはっきりと掴めないままでいた。その半透明性がXXにある程度の研究意欲を沸き立たせることもたしかにあった。しかし、それはもう彼を突き動かしてやまないほどのものとはならなかった。真理の発見の不可能性に、彼はほとんど絶望していたのであった。XXは、穏やかに物乞いの演奏を聴いていられるということにすっかり満足してしまっていたのであった。そこに探求の精神はわずかばかりしか存在していなかった。そうしたものすら、彼は徐々に忘れようとしていたのである。はっきりと知りたいと思うものをいつまでたっても捉えられないという苦しみは全くが徐々に取り除かれてゆき、XXが物乞いと過ごす時間には、安らかな、純粋な音楽の聴取のみがあったのだ。

 とはいえ彼自身、新聞が激しく批難したように、天才音楽家としての物乞いを独占している、ということを自覚してはいた。その点では彼は確かに世間に対する引け目のようなものを感じてはいた。以前、議員の説得に応じて演奏会を開催することを決意した日のXXのように、今の彼も同じく天才音楽家を独り占めすることはおそらく正しいことではないと考えてはいたのである。冷静になった今では、確かに議員の言うとおり、わざわざ演奏会をきっぱりやめることにせずに、議員一人を主催にして、私が全く関わらないかたちで演奏会を継続していくということも十分可能であったであろうし、物乞いのためにもそのほうが良かったのではないか、と彼は考えることもあった。しかし今の彼は、それにもまして、ただ物乞いを独占していたいという考えに支配されるようになっていたのであった。物乞いには、ただ自分ひとりのためだけに演奏してほしい、とXXは考えようになっていたのであった。

「ほれ、阿呆よ、お前はまたあの新聞記事のことを考えておるだろう。音にお前の不安があらわれておるぞ。喋ることができなくとも、お前の考えていることはそのままお前の演奏にあらわれるからわかりやすいな」とXXが演奏中に話しかけると、物乞いは演奏を止め、恥ずかしそうに頭を掻いた。それから物乞いはすうっと息を吸ってから、集中力を取り戻して、再び演奏を始めた。


 ゆったりとした態勢で目を瞑りながら聴いた物乞いの演奏の中でXXが感じ取ったのは、どこかで見た景色であった。それはもう完全に忘れ去られてしまっていた光景で、いつ見たものか、どこで見たものかは決して思い出せなかった。名前も分からない土地で、XXは一人で音楽を聴き、その音楽にあわせて動き続ける映像を目の当たりにした。音楽を構成している音の一つ一つに由来する、あらゆる種類の宝石を砕いて散りばめたような、きらきらと鮮やかな色の印象が束になって混ざり合い、海を泳ぐ数え切れないくらいの小魚が大きな一つの生物に見えるような大群をなすようにして、それらのいくつもの色が混ざり合って一つの色を作り上げた思うと、すぐにふたたび無限の色に分かれていった。その全体は、何らかのものの形を作りなそうとはするものの、すぐさま崩れゆき、そしてまた形をなそうとする、というふうにして繰り返し繰り返しその姿を決して留まることなく変えてゆく。しかしそれを構成する、一切の形を欠いた無限の色のそれぞれは、構築と崩壊との連鎖の中で変わることなく、同じ色のまま輝いていた。色の一粒一粒がダイヤモンドやルビーやサファイアのように揺らぐことのない硬質な輝きを持っていたのである。あたかも点描画を構成する各点はそれぞれ各自の色をしているが、全体を眺めるとそれ自体が各点の色とは独立の印象を成り立たせるかのようにして、それぞれの色は好き勝手にいたずらをするように戯れていた。そのような映像の海の中で、XXが手を伸ばして小さな色の粒を取り上げようとすると、その色の粒はするりと手のひらから逃れて泳いでゆく。別の色をじっくり観察しても、それは一つの印象のまま留まっていることはなく、常にすぐ近くにいる色と結び付き合って、無際限に印象を変じてゆく。どの色も自由に泳動しているのである。どれもが無限にたゆたっているのである。どれもこれもが鮮やかなその印象が一体何であるのか、それらの印象を統御する全体は一体何であるのか。XXのまぶたに映るこの映像は一体何を表現しているのか。答えを掴もうとしても甲斐のない問いを、XXは繰り返しぼんやりとした意識で問い続け、その全体を捉えようと試み続けていたのであった。そのように問い続けていたにも関わらず、彼は、その映像の全体が何であり、何を意味しているのか、ということをよく知っているような気がした。というのも、そうした夢のような光景は、彼にとって愛しく、そして懐かしいもののように感じられたからである。しかしそれが何であるのかをまったく思い出せないのだった。その手がかりすらつかめないままでいた。まだ見えない先をはっきりと見極めようとするために霧をかき分けようとしても無駄であるように、彼がその記憶を忘却の河から掬い上げようとしても、決して成功することはなかった。生前や死後の記憶というものがあり得ないのと同様に、それもそもそも本質的に思い出し得ない記憶であるかのようであった。


 XXがそんな夢から醒めると、物乞いは彼の前で、楽器を弾くことなく、XXをじっと眺めて静かに座っていた。日が暮れ始めていた。部屋は徐々に暗くなっていたが、XXには物乞いが笑ったのがよくわかった。

「食事をとったあとにお前の音楽を聴くと、お前の音楽が心地よくて眠ってしまうな。すこし頭もぼうっとするので、今日はもう部屋で休むことにするか。お前は好きなようにしているがよい」といって、XXは立ち上がって自分の部屋へと下がっていった。XXは、今すぐまた眠りに就けば、さきほど見た心地よく懐かしい夢の続きを見ることができるのではないかと期待していたのであった。

 物乞いはXXの背を静かに見送った。青く暗い夕闇の空気の中を、切れ切れになりながらも残った夕陽の光が貫いて、XXを赤く染め上げていた。


 *


「真っ暗だな」

「ああ。こう真っ暗だとひと目を忍んで上手くやれそうだな」

「本当にそうだ」

「この暗さが、いまから俺たちがやろうとしていることもなにもかも隠してくれればいいのにな。ああ、違う、いいことなんだ、俺たちのすることは。隠してもらわなくたっていい」

「そうだ。褒められるべきことをやろうとしているんだ。そろそろ行くぞ。終わったら倍になった金で美味い酒を飲み直そう。俺たちがやった善行に対する祝福をしよう」


 *


 物乞いは一人で、バルコニーのついたいつもの部屋で楽器の手入れをしていた。蝋燭の小さな明かりがいくつか物乞いの手元を照らすだけで、部屋は夜の内に沈んでいた。調律のためにいくつもの弦を優しく弾くと、XXの愛している音がその数だけ流れ出した。物乞いは調律を済ませて、手に馴染んだ曲を小さな音で奏で始めた。その演奏は非常に小さな音であったにもかかわらず、蝋燭が燃える音さえ聞こえてきそうなほどに静まり返った屋敷に、水が乾いた布に少しずつ浸透してゆくようなしかたで優しく広がっていった。物乞いは世界が静まり返ったこの瞬間、誰にも、XXにも演奏を聴かれない、ということを楽しんでいるかのようであった。XXが仮にこの静かな演奏を聴いていたとするならば、やはり彼は物乞いがいま何を考えて演奏していたか、ということを見抜いたであろう。


 物乞いの背後で扉の開く音がして、彼は振り返った。入ってきた見知らぬ男二人を目にして、物乞いは驚いたように目を見開いた。

「ここだな。その音のお陰でよくわかったぜ」と部屋に入ってきた二人の男のうちの一方が言った。

「おっと、そう怯えなくてもいい。俺たちはいい人間なんだ。まあ話を聞きな。喋れなくたって話を聞くことくらいはできるんだろう?」

「俺達はお前をここから連れ出してやろうっていうんだ。あんな人でなしのもとにいるんじゃやっていけないだろう。それを助けてやろうっていうんだ。どうだ、もちろんついてくるよな?」

 男たちはにやにやと笑いながらそう言い出したが、物乞いは表情を一つも変えずに楽器を手に持ったまま固まっていた。自分たちのやっていることはいい行いであり、当然物乞いは二つ返事で自分たちについてくる、と思い込んでいた彼らは、物乞いの呆けたような反応を見て少し苛ついた。それから再び物乞いに提案するのであった。

「なぁ、お前をここから連れ出してやるって言っているんだ。助けてやるって言ってるんだ。嬉しいだろう?」

「なんとか返事をしろよ。喋れなくとも身振りで返事はできるだろう」

 それに対して、物乞いがはっきりと拒否の態度を取ったのを見て、男たちはいよいよ腹を立て始めた。

「それならしょうがない。少々手荒い手段にはなるが、無理やり連れ出すしかなさそうだな」と言って、男は物乞いを取り押さえようとした。彼らに押さえつけられようとして、物乞いは抵抗して激しく暴れた。

「おい、そんなに暴れるなって。何も俺たちはお前を悪くしようというんじゃないんだ。いいか? いいことをしようとしているんだぞ。あの男の莫大な資産の一部としか、単なるものとしかみなされていないお前を救い出してやろうとしているだけじゃないか。お前だって助け出されるのが嫌なわけがないだろう?」

「そうだ、単なる道具としか思われていないお前を開放してやろうとしているんだぞ。やめろ、暴れるな暴れるな」

 男たちが物乞いを押さえつけようとするほど、物乞いは手足を大きく動かして激しく抗った。そのため、物乞いの動かす手足によって、男たちはしたたかに打ち付けられたのである。

「痛いな! いいからおとなしくしろ! いい加減にしろ!」

「おとなしくしろ! これでもくらえ!」

 腹や顔に物乞いの手足を何度も何度も打ち付けられた男たちは、痛みのせいでじわじわと湧き出してくる怒りのせいで、次第にその行動は荒さを増してゆき、とうとう彼らは物乞いを数度殴りつけた。それでも物乞いの抵抗が収まることはなく、むしろそれはますます激しくなっていき、二人の男の方も物乞いによって何度も殴られるかたちとなった。

 そうしている内に、とうとう二人のうちの一方は完全に怒りに支配されてしまい、近くにあった大きな壺を手に取って「畜生め! くたばりやがれ! この物乞いめ!」と叫びながら物乞いの頭を、壺が大きな音を立てて割れてしまうまで何度もそれで殴った。壺が割れたときには、物乞いは床に倒れ、動かなくなってしまっていた。

「おいまずいぞ、そんなに大きな音を立てては。やつが来るまえにさっさと逃げよう」ともう一方の男は慌てて言った。

「しまったな。しまった。ついカッとなって。やってしまった。悪くはない。おれは」と物乞いを壺で殴りつけた男は、荒れた呼吸を落ち着けながら、ぼそぼそと独り言のように言った。手に残った壺の破片を放り捨てて、もう動かなくなった物乞いを指さして言った「こいつ。こいつはどうしよう。死んじまった。殺した。殺してしまった。動かないが連れて行くか?」

「知ったことか。死んじまったやつのことなんか考えても仕方ない。そんなもの持って行って何の役に立つ? そこに転がっているそんなものよりもいま生きている俺たちのほうが大事だ。それはそのままにしてさっさと逃げるぞ!」と言って、彼らは夜に沈んだ真っ暗な廊下を走る中であちこちものにぶつかって、花瓶を割り、燭台を倒しつつ、なんとかXXの屋敷から逃げ出していったのであった。


 *


「おい、阿呆よ、どうしたのだ。大きな音など立てて。泥棒でも入ったのか」と、屋敷に侵入した男たちが立てた物音を聞きつけて、XXは目を覚まして彼の部屋から物乞いのいた部屋までやってきた。そこで彼は、物乞いが横たわっているのを見つけた。「阿呆よ、阿呆よ」と呼びかけて叩いてみても、物乞いは身動き一つせず、まぶたを開こうとさえしなかった。XXは物乞いのそばに座り込んだ。


「阿呆よ、死んでしまったのか? その壺で殴られて? そんな、お前がか? ほれ、眼を開けて起き上がるがいい。みろ、細いながらも美しい月が登っておるぞ。今日は月が細いせいでこんなにも暗いのだな。何か一曲聞かせてくれ。起きろ、起きろ。こんなに揺すっても起きんとはな。やはり死んでしまったのか? ああ哀れなやつめ。なんと哀れな……。人の死などこれまで哀れんだことのないワシだが、なぜかお前の死は無性に可哀想に思えてならないぞ。ああ、阿呆よ。ワシの可哀想な阿呆。音楽を奏でること以外にまるで能のないやつだったというのに、お前は大事な楽器、お前の半身、いやお前の実体をここに忘れていってしまっているぞ。死んでなどおらんのだろう? まだ生きておるのだろう? ……ワシが触らせてくれと言われても決して触らせようとさえしなかったお前の大事な楽器だというのに、忘れて行きおって……。今ワシが触ったとしても怒るでないぞ。……ふむ、これは思っていたよりも軽いのだな、この妙な楽器は。たしかお前はこうやって奏でておったな。うむ、たしかにいい音だ。何度も聴いた音だ。そうやって横たわる前にもお前はいつものように楽器の手入れをしていたのだろう。そしてこうやって……。うむ、ワシはよく覚えているぞ。いつもお前が奏でる素晴らしい音楽を聴いておったし、奏でる様子もつぶさに観察しておったからな。ここの弦とここの弦とをこうして弾けば……ほら、お前がよく奏でてくれたあの曲になるだろう。お前ほど巧みには弾けんでも、お前を慰めてやるためにここでお前の音楽を奏でてやることくらいはできるぞ。さあ、心して聴くがいい。……どうだ? ふむ、音は間違ってはいないはずだが、しかしお前が弾いてくれたものとは何かが違うな。もう一度やろう。……これもまた違う。音の高さや長さは同じはずであるのに、同じ楽器で奏でているというのに、ワシのほうが遥かに拙いかもしれんが同じ弾き方をしているはずなのに、なぜお前が奏でるのとワシが奏でるのとではこれほどまでに違った音楽となるのだ? なぜなのだ。よし、もう一度奏でてやろう。……おお、屋敷に火が付いておるのか? おおかたお前をそんな姿にした哀れな強盗が慌てて逃げ去るときにどこぞの燭台を倒してしまったのだろうな。いやなに、慌てることはない。それよりももう一度弾いてみようか。お前に教わらずとも、何度か弾けば何か音楽のコツのようなものを掴めるかもしれないからな。……やはり違うな。阿呆よ、ワシが弾いたのでは、お前が弾くほど音は色鮮やかではないし、活き活きと踊るようにはならない。以前他の音楽家の演奏を聴いたときに感じたことでもあるが、音楽の核となっているような、あの硬質なものがワシが奏でた音楽には一向に見当たらないのだ。今日お前の音楽を聴いているときに見た夢のような氾濫する色は、ワシの演奏のどこからも生じて来ないのだ。……お前の奏でる音は、音楽は決してこの奇妙な楽器に依存していたわけではなかったのだな。よく分かった。うむ、よく分かった……。……どうやら火の手が回ってきているようだな。いや、ワシのことはいい。なに、ワシがこうして焼け死ぬのも運命だ。ワシはここで死ぬべくして死ぬのだ。それに、どうせあと百年、祈り続けて待ったところで再びお前が生まれ出てくるということなどないのだろう? こうして生きていてもしかたあるまい。おい、阿呆よ、お前は本当に死んでしまったのか? お前はこの世にもう一人いたりはしないのか? 生きておらんのか? 本当に? 実に惜しい。もう一度、一度でいいから、お前の奏でた音楽を聴きたい。ワシが奏でるのでは駄目なのだ。駄目なのだ。お前でなければ駄目なのだ。お前だったからあの音楽になったのだ。お前の音楽が聴きたいのだ。だが、その望みももう叶わぬようだな。叶わぬのか。……うむ、実に惜しい。……これほど美しい月を眺めながら、お前の音楽を聴くのはさぞ心地よかったであろうな。またあの夢を見させてくれ。そうするためにも、お前があともうわずかばかり生きながらえてくれるだけでよかったのだが……。たとえ男の姿をしていたとしても、お前はワシにとってずっと音楽の女神であり続けたのだ。阿呆よ、ワシのミューズよ、お前は死んだのか? 死んでしまったのか? 本当に? この世界のどこを探してもお前という人間は他にもういないのか? やはりお前は一人しかいないというのか? 一人しかいないというのだな……。お前も、お前の音楽ももう存在しないのだな。……ああ、よく分かった。分かった……」。

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思い出す夜に 白井惣七 @s_shirai

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