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「阿呆よ、お前の音楽には何か特別なものが秘められているような気がするのだ。ことばにして掴み取るにはいかにも頼りない、希薄で、靄に覆われたような曖昧なものであるのだが、それと同時に、それ自体は硬く、決して壊れ得ない永遠的なものであるように感じ取られる。他のいかなる音楽を聴いても、そこにそのような何かが感じ取られるということは全くない。ただお前の音楽にのみ潜んでいるのだ。なぜなのか、そしてそれが何であるのかを知りたいのだ」とXXはとうとう物乞いに打ち明けてみたが、物乞いは困惑したように小さく微笑み返すのみであった。おそらく物乞いはただ彼自身の魂の赴くままに演奏しているだけであって、そのように特別なものとして聴き取られる理由など彼自身にもまったく分からないのだろう、とXXは考えた。
物乞いの演奏会は、初回以降も毎回コンサートホールを満員にしていた。物乞いも共催の議員も、会を終えるたびに満足そうにしているのだが、その中でXXだけはただ一人不満なのであった。というのも、演奏会における物乞いの演奏は、初回以降も、いずれも素晴らしいものばかりであったのだが、XXの予想に反して、物乞いの音楽の本質を理解するという目的を達成することは叶わないままであったからである。官能を震わすように感覚されていた、この世のものとは思われない素晴らしい匂いでさえ、それをずっと嗅ぎ続けているとやがて嗅覚が麻痺してしまい、ついには何も感じられなくなってしまうように、物乞いの音楽もずっと聴き続けているために感覚がそれに慣れきってしまい、それまでよりも遥かに小さな感動しか得られなくなってしまっているのではないか、とXXは考えた。そのため、彼は感覚を新鮮なものとするために、物乞いを屋敷において他の音楽家の演奏を聴きに行くこともあった。しかしそのようにして、物乞いの音楽を聴くための感覚を新たなものにしたと思っても、その後に物乞いの音楽を聴いて得られるのは結局のところ、物乞いの音楽にはやはり、他の音楽家にはない、硬く揺るぐことのない神秘的な、しかしいわく捉えがたい「何か」が潜んでいる、ということのみであり、その「何か」の根源、本質を見て取ることは一向に叶わないのであった。XXは、これまで自分の感情や感覚を一つの謎のように捉えたことなどなく、ましてやそれらのことについて深く追求しようと思ったことのない人間であったので、この歳になって自分の感覚に根ざしたことがらから避けがたいまでの探究心を煽られるのは、彼にとって不思議で、それと同時に、ほとんど一日中物乞いの音楽について考えているのは、あたかも自分が恋をしているかのようにも感じられ、自分の探究心がときにどこかばかばかしいようにさえ思われたのであった。
ある夜などは、ベッドに入り込んだ後も、燃え尽きてしまったあとの焚き火の燃えがらがそれでもしばらくは高熱を保っているようにして、直前に聴いていた物乞いの音楽が耳の底で鳴り続け、物乞いの音楽の核、水のようにとめどなく流れ続けるにもかかわらず、ガラスのように硬質なあの核が一体何であるのかを究明するようXXの意識に強いるので、XXは寝るに寝られず、物乞いを叩き起こして演奏させるのであった。しかし目を擦りあくびをしながら、しかも眠りによって途切れ途切れに例の奇妙な楽器を演奏する物乞いの姿を見て、XXは、自分のしたことながら、物乞いに気の毒なことをしたと思い、そのときは物乞いの音楽の研究どころではなくなってしまうのであった。
そうしたことのせいか、その日の夜、XXはこんな不思議な夢を見た。XXと物乞いとがいつもの部屋で向かい合って座っているのだが、いつもとは違って物乞いは眠っていた。物乞いは楽器もどこかに置いてきているようで、何も持たず、無防備な格好であった。XXはただそれをじっと眺めているだけであった。しかしXXは、眺めているだけであるのに、どこからともなくいつも物乞いが奏でるあの音楽をを聴き取っていた。XXはそれがどこから聞こえてくるのかを探った。普段なら音楽を奏でるはずの物乞いは、彼の目の前で眠っていたからであった。彼はあたりを見回し、ついには天上の音楽の女神による演奏か、と考えて天の方へと耳をすませたが、そうではなかった。音楽は、どれだけあたりを探ってみても、この眠っている物乞いの方から聞こえてくるとしか考えられないのであった。この物乞いは楽器がなくとも、さらには眠りながらも音楽を演奏できるのか、とXXは思った。あるいは、この物乞い自身が音楽であるのか……。
XXが物乞いに対して彼の研究内容を打ち明けて以来、彼が演奏中の物乞いに背後からそっと近づくと、物乞いはその気配を察して、演奏のしかたを切り替えるのであった。日常的なしかたから祝祭的なしかたへ、現実的なしかたから夢につつまれたようなしかたへ、あたかも蕾んでいる花がさっと花を開くような華やかさと興奮とで、そしてそれと同時に、見回りに来た教師の目を欺く怠けがちな生徒のようないたずら心をもって、物乞いは自分の演奏をいっそう鮮やかなものへと変えてゆく、ということをXXは容易に感じ取った。ほんの一瞬の間に、ぱっと切り替わるので、切り替わった瞬間には、XXは、それが連続した一つの音楽ではないかのような錯覚に囚われるのであった。しかししばらく聴いていると、その曲はやはりそれまで物乞いが弾いていたのと同じ曲であり、自分の聞き慣れた曲であるということに気がつくのである。そうした変化を耳にして、XXは出来る限り物乞いの邪魔をしないようにゆっくりと近付いて、小さく笑いながら物乞いの正面に腰を下ろすのである。物乞いが一曲、あの「無題」のうちの一つを弾き終えると、物乞いは自身たっぷりに、「どうだ、何か分かったか」と言いたげな瞳でXXを見つめるのであるが、XXは物乞いの甘美な演奏の中に溶け切ってしまった探究心を演奏が終わってからようやく思い出し、残念そうに首を振ると、物乞いもまた残念そうな表情を浮かべながら別の曲の演奏を再開するのであった。
XXが投げかけたことばに対して物乞いが音楽か表情かで返答するというしかたで進められていく対話は、XXにとって何よりも幸福なことであった。その対話の時間は徐々に増えてゆき、いまや彼は一日のほとんどの時間を物乞いとの対話に割いていた。永久凍土のように冷たく凍り、厳しく固まっていたXXの憂鬱は、物乞いの音楽を交えながらの、春のようなそうした対話の時間において和らぐのである。彼の孤独はそのわずかな間のみ癒されるのである。演奏会のような公的な場での演奏ではなく、あくまでも向かい合って、語らい合う中で聴き取られる演奏を彼は愛したのであった。なるほど、多くの人々と向かい合い、たった一人の人間としての物乞いが演奏する際には、XXは、物乞いの音楽だけが持っているあの核を、あの本質を、あの実体をより繊細なしかたで見分けることができ、彼の求める答えにいっそう接近することができるのであった。しかし、その演奏を何度聞いてみたとしても、一定以上鮮明には直観することができないのであった。眠っている人の夢が最高潮に達そうとするその瞬間に、夢を見る人は彼の夢の世界から追い出されてしまうというように、XXもまた、演奏会での演奏においては物乞いの音楽の繊細な中心部に漸近することはできるのだが、その中心を理知の力で捕まえて、言語によって判明なしかたで表現しようとしたその瞬間に、強力な斥力によってXXの精神はその音楽の中心から周延へと突然放り出され、探求はそこで一度途絶してしまうのである。そうした状況がすでに幾度も続いており、XXは自らの研究を諦めつつさえあった。それゆえ、彼を演奏会開催へと導いていた一つの、しかし極めて重要な要因が消失してしまったいま、彼は演奏会に対して徐々に消極的になり、ついには、物乞いの奏でる音楽を一人のんびりと心ゆくまで楽しむことも、憂鬱の解消には少なくともある程度は寄与するのであるのだから、それは、憂鬱の完全な治癒、すなわち物乞いの音楽の「神秘」の解明を求めて、強制的に中断させられてしまう探求を幾度も幾度も無駄に繰り返すよりも遥かに幸福なことなのであって、提供される幸福の度合いが劣っている演奏会の開催など以後取りやめてしまったほうがよい、とさえ思うようになってしまった。
こうしてXXは、今後演奏会を開催しない、という考えを日に日に強固なものとしていったが、物乞いが演奏会を楽しみにしているということには間違いがないと考えていたので、「次回予定されている演奏会が終わったら、それ以降、演奏会は取りやめにしてしまおう」と物乞いに切り出すことは、XXにとって大きな困難であった。彼は毎日、今日こそはそのように告げようと思って目を覚ますのであるが、XXが楽器の手入れをする物乞いの背後に至ると、以前XXが物乞いの音楽に対して抱いている感情を打ち明けてから習慣になっていたように、物乞いは、演奏への没入を深め、さらに繊細に、さらに鮮明に音楽を奏で始めるので、その一音一音の優しさに、XXの精神に宿っていた陰鬱な孤独と自己中心的な快楽主義とがすっかりと溶かされてしまい、そのときは、「阿呆が楽しみにしているなら演奏会を続けるのも悪くないな」と考えて、彼は自分の考えを飲み込んでしまうのであった。しかし彼がそのように考えているまさにその瞬間は、物乞いの音楽によってXXの精神は非常に高い温度にまで熱せられていたので、彼の精神に漂っていた思考がすっかり溶解してしまっていただけなのであり、物乞いの音楽から離れてほんの数時間過ごしただけで、高温の水に溶けていた物質が溶液の温度の低下にあわせて再び結晶化するようにして、演奏会中止に関する彼の思考が再び顔を現すのである。そして物乞いの音楽から最も遠く隔たった時点、すなわち翌朝目を覚ましたときには、また同じように、演奏会を中止しようという考えがはっきりと結晶化して精神の内に蘇り、今日こそは、と彼を促すのであった。
*
会の取りやめを告げる際に大きな問題となったのは、物乞いではなくむしろ議員の方であった。これはXXの想像の範疇の全く外側から生じた事態であった。というよりも、そもそもXXがまったく考慮していなかった事態なのであった。
XXが一人で密かに「最後の演奏会」と呼んでいた会が終わると、いつものように議員はコンサートホールのロビーで、喜びに溢れた顔で「今回も満員でしたね! すばらしい!」とXXに挨拶するのであった。「それで次回の演奏会についてですが……」と議員が言ったところで、XXはとうとう彼の胸に宿っていた考えを吐き出すときが来た、と決心した。
「そのことなんだが、阿呆もよく聞いて欲しい。演奏会はこれっきりにしようと思うのだ」とXXが言った。議員は自分が聞き間違えたかのように、そして次は耳だけでなく目でもXXの言ったことを聞き取ろうとするかのようにその目を大きく見開いて、「いまなんと?」と尋ねるのであった。
「演奏会は今回を最後にして、もうやめにしようと思う」
「なぜまた」
「ワシが演奏会にそれほど魅力を感じなくなったからだ」
「ふむ、ではこの音楽家を使ってまた何か別の事業でもしようとお考えですかな? 私は演奏会が最もよいと考えてはおりますが……。すでに何かお考えの場合はぜひ私を頼っていただければ……」
「いや、特には考えていない。というより、何もやるつもりはない。ワシとてもう老い先は長くないのでな。阿呆のそばで、こいつの音楽を聴きながらゆっくり暮らしていきたいと考えておるのだ」
XXがそういった瞬間に、議員の顔は怒りに熱せられてぱっと赤くなり、飛びかかるようにして猛反発し、大声で叫んだ。
「なに、それではこの音楽家の舞台はなくなるということですか? それはあまりにも突然すぎませんか! やめたいという理由も、単にあなたがやりたくなくなったから? ふざけないでください! 天才の音楽を享受するという幸福は、たった一人の人間が、その天才本人ならまだしも、天才以外の人間が妨げていいものではありませんよ! あなたが主催から外れるだけでいいではありませんか! この音楽家は私が借りて私が勝手に使う、それでいいではありませんか!」
この議員の大声に引き寄せられるようにして、ホールに残っていた少なからぬ市民たちはXXたちを遠巻きに囲むようにして集まってきた。
「そもそもこれはワシたちだけで決めていい問題ではない。まずは阿呆の意見を聞かねばならぬだろう。どうだ、阿呆よ、お前はこれからも演奏会を続けていきたいか?」とXXが物乞いに尋ねると、物乞いは一瞬、じっとXXの瞳を、あたかもそこに何か答えが書いてあることを知っているかのように覗き込んだ。同時にXXは物乞いの澄んだ瞳を覗き込むことになったのであるが、そのとき、池に小さな石を投げ込んだときに発生する波のように、小さな、それでもしかしはっきりとした波が、物乞いの瞳の奥にほんのわずかなあいだだけ生じたのをXXは見逃さなかった。それは池に生じた波が太陽の光を様々な角度で反射させ、無数の色を発出させるのと同じようにして、数え切れないほどの色の氾濫を伴って現れていた。その波を垣間見た瞬間、XXは、彼の考えを告げたことを後悔した。彼は、鏡のように光る物乞いの瞳の奥に見たその波を、演奏会への執着と、そこから生じる物乞いの悲しみ、精神の動揺として解釈したからであった。
XXは、物乞いの瞳を覗き、物乞いの本心と思しきものを読み取ったことで、演奏会を中止するという提案を取り下げ、議員とも和解しようと考えた。だがそのときのことであった。物乞いは、XXが口を開くよりも一瞬早く、はっきりと首を振って、演奏会継続を拒否したのであった。二人は驚き呆けた。XXは、物乞いの瞳の奥に見た、物乞いの本心と思われることと、物乞いが実際に提出した意見とのちぐはぐさに、そして議員は自分の思惑が外れたことに。「阿呆よ、お前はワシのためだけに演奏するのがよいというのか?」と、XXは驚きのせいで少し震えた声で物乞いに問うと、物乞いは強く肯定した。それが物乞いの本心であったかどうかを読み取る手立てはXXにはなかったのだが、彼が物乞いの瞳の奥に揺れる波を見たことから生じた後悔も、それに引き続く驚きも、いまは物乞いがXXの意見を力強く肯定したことによる、言いようもない喜びによってすっかり塗り替えられてしまっており、それが物乞いの本心であるかどうかなどもはや気にかけようともしなかった。
「阿呆も演奏会はもうやらないと言っている。理解してほしい」とXXが喜びに満たされ、勝ち誇ったように言うと、すぐさま議員は声を荒げて「理解! 理解と言いましたか! いいえ決してできませんね! 決して! もとはといえば物乞いに過ぎないくせに忌々しい! こいつ! こんな男、引っ張り出してでも演奏させてやる! ああ、忘れていましたよ! この大音楽家は、確かに一人の天才であったとしても、XXという偉大な偉大な資産家の財産の一部なのでしたね! あなたの思いのままだ!」と叫んだ。このとき、議員とXXを取り囲む人々の間でも少しざわめきが起こった。今や、「この大音楽家はXXという資産家の財産の一部である」という議員のこの一言で、百年に一度の天才であると評価されている大音楽家たる物乞いがいるのは、詐欺師、ペテン師、人でなし、大悪党等々と罵られているあのXXのもとである、ということを人々は徐々に思い出しつつあったのである。
「今日のところはこれでお別れしましょう」
「私は決して引き下がりませんからね! 演奏会は続行すべきです!」
こうしてXXと議員とは別れ、彼らはそれぞれ別々の、夜の深まった暗い道を歩み、帰ってゆくのであった。
*
この二人の争いは、後日の新聞記事によって大きく報じられ、もはやXXと議員との二人だけの問題ではなくなってしまった。その記事では、議員が放った「この大音楽家はXXという資産家の財産の一部である」という例の一言が取り上げられた。そしてXXを強く批難する論調で、次のように書かれていたのである。
「天才音楽家を開放せよ! 芸術家は奴隷ではない!
先日行われた、かの天才音楽家の演奏会の後、主催者であるXX氏と議員との間で口論が起こった。この口論の争点となったのは、これ以後も引き続き音楽家の演奏会を開催してゆくかどうかという点にあった。当然、これは彼らだけの問題ではなく、音楽を、ひいては芸術を愛する我々にとってもまた非常に重要な問題である。良識ある議員は当然の如く、天才の音楽を広く人々と共有するために演奏会の開催を続けることを望んでいたのであるが、XX氏は、ただおのれが欲しないがゆえに、という極めて独善的な理由をもって演奏会の開催を中止する、と語ったのである。これは、良識ある議員の放った「XXという資産家は、この大音楽家を自らの財産の一部としている」ということばが指摘するとおり、天才の音楽を独占しようという、まことに自分勝手な思想から生じた発言であり、芸術が万人のためのものであるということに鑑みれば、断じて許されるべきことではない。……これは単に我々とXX氏との個人的・一時代的戦いであるだけでなく、人と時代との垣根を超えた、芸術と資本との普遍的・永遠の闘争である。……したがって我々はここにXX氏を強く批難し、天才音楽家が、貴重な宝石や絵画のごとくに、一個人の単なる私有財産に堕してしまっているこの状況は変革されるべきであると主張する。かの天才音楽家を、芸術を開放せよ!」云々。
この記事を物乞いのために読み上げて、XXは鼻で笑い、静かに呟いた。
「ふん、こいつらは何も分かっていないのだ。阿呆がワシの私有財産なんかであるものか! あいつらはワシがボロを着てごみ溜まりのそばに座っていたら、奴らは何のためらいもなくワシのことを哀れな物乞いと呼ぶだろうし、あいつら自身もボロを着てそこ座り、人から「哀れな物乞いめ!」と指をさされただけで自分のことを哀れな物乞いだと思い込むだろう。あいつらは阿呆のことを何も知らないし、ワシのことも何も知らない。奴らは奴ら自身のことでさえ全く何も理解してなどいないだろうな」。
物乞いが不安そうな顔をしてXXのことを見るので、XXは大きく笑って「なに、ワシが人々に嫌われているのは今に始まったことではない。何も変わってはおらんよ、ワシもお前も、何も変わらんさ。こんなことで変わるものではない。さあ、いつもの曲を聴かせてくれ」と、物乞いを安心させるようにして言うのであった。
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