KAC9: 璃唱の朝

鍋島小骨

璃唱の朝

 何がめでたいものか。

 めでたいと思っているのはおぬしらばかりじゃ。

 めでたいのは国と国が友好の芝居の山を演じ終えたからであり、めでたいとはその芝居の台詞であって。

 誰ひとり、祝う者はおらぬ。

 幼い弟の言うは、ただ教わったままの台詞。

 母上のおっしゃるは、わたくしが父上と国の役に立つよう一国の道具たる姫として当然の役目を果たしたこと、そしてそのような娘を育てつつがく送り出せたご自分に対するものであろう。

 父上に至ってはわたくしに対するお言葉もない。

 木にる果物を採って売ったと同じことじゃ。

 木の主もその従者も、果物自体に対して思うことなどありはせぬ。

 ただその果物がたこう売れて銭になった、そのことを喜ぶ。

 木からもがれた果物わたくしは、どこへ送られどうなるか、何一つ己れの好きに決められはせぬ。

 王宮というひつぎの中に生まれ落ちた果物わたくしは、傷がつけば終わり。喰らえば終わり。喰らわれる前に腐れば終わり。

 その、何がめでたいものか。




  * * *




 早朝、不愉快な夢から覚める。

 身体を起こすと、控えていた女官がすぐさま冷えた水を持ってくる。

 眠る前、つまらぬことを考えたせいだ。

 何故わたくしは王の娘などに生まれついたのか。

 何故皆、わたくしが柩から柩へ移されるだけのことでめでたやめでたやと芝居をするのか。

 王子の妃など、流れ次第でかくも容易たやすく危険に晒されるというに。

 わたくしは寝床の敷物の下に指を滑らせる。柔らかくひねった身体の陰になるように。

 目の前では女官が水を満たしたさかずきを捧げ持っている。


「……しゅん様は」


 寝惚ねぼけた風を装って視線も合わせずに聞くと、女官が答える。


「明け方、火急の使いが参りまして、お会いに。しかし、間もなくお戻りになりましょう」


 緩慢にうなずいて杯に片手を伸ばす。そうしながらさりげなく尋ねる。


「そちは誰じゃ」


 わたくしの指が届く前に、透明な水を滑り散らしながら杯は宙に踊る。女官の右手が着物の懐から何かを取り出そうとするが、両手で杯を捧げ持っていたその女よりもわたくしの片手が敷物の間で掴んでいた小太刀を跳ね上げるのが速い。

 わたくしは刀を振るうのと逆の手で女の右手を握り、掴み上げたその手首に刃を叩き込んだ。

 いかに鍛えようと女の手首、対するはその切れ味で音に聞こえた名刀。一瞬の後、わたくしは斬り取られた右手を掴んだまま返す刀を女の膝上に突き立てた。

 見苦しく悲鳴を上げるところを見ると、手練てだれの刺客というほどではない。この程度の者を寄越すとは、所詮は間の抜けた田舎王族の女とあなどったものか。

 異様な声を聞きつけ、寝所の外で番をしていた護衛の者たちが血相を変えて飛び込んでくる。血だまりを見てわたくしが斬られたと早合点したか、一人が短い怒声を上げて刀を振りかぶり踏み込んで来たが、わたくしはそれを制した。


「おし。わたくしの血ではない」


 女の腿に突き立てた刀を掴んだまま、斬り取ったばかりの手首を放って捨てると、護衛たちの顔に驚愕の色が広がる。

 わたくしがこんなことをするとは思っていなかった、という顔ばかり。

 つまり、何かあればこのわたくしは簡単に殺されてしまうと思っていたのだ。敵に侮られたのと同様、わたくしは夫の配下にも十分に侮られていたということだ。

 しかしそれは彼らが悪いのではない。わたくしは、王族の姫が教養として学ぶ護身術や自害の作法以上の武術を身に付けていることをこれまで明かしていなかった。しかるべき嫁ぎ先を探すにあたり男顔負けの武勇の姫では見つかる相手も見つからぬ、との母上のご意向で、わたくしが武芸を磨いたことは祖国でも一握りの者しか知らぬ。

 女の腿に突き立てていた刀を抜き、着物のたもとを切り取ってのたうち回る女の口に詰め込んだ。舌でも咬んで死なれては何も聞き出せなくなってしまう。

 うめき声を上げ続けるまみれの女を見ているうち、つくづく嫌になってきた。


「捕らえよ。その水差しも調べておくれ。毒でも入っているに違いない。

 あるいはわたくしではなく、お戻りになった柯隼様が召し上がることを期待して用意した毒水やも知れぬ。もしそうなればわたくしは夫殺しの汚名を着せられ、晴れてせい国とれん国の間に戦の口実ができた、というわけじゃ」


 護衛たちの気配がざわつく。

 今この聯国では老王が死の床にあり、第一王子りょう様の周辺がにわかに第二王子、つまりわたくしの夫、柯隼様を排除しようと暗躍を始めている。青国から嫁いだ妃のわたくしが柯隼様を殺したとなれば、兄の燎飛様は青国との弔い合戦に踏み切るだろう。聯の武力をもってすれば小国の青など造作なく叩き潰せる。目障りな弟を消し、武名も上げられる一石二鳥の計画というわけだ。青国は失って惜しい同盟国ではない。

 元々、柯隼様には国内の重鎮一族や様々な大国から嫁の来手があったものを燎飛様側の者どもがことごとく潰し、柯隼様がこれ以上強力な後ろ楯を持たぬよう画策した。その結果が、吹けば飛ぶような小国の姫であるこのわたくしとの婚儀である。

 恐らくわたくしは初めから、暗殺者に仕立て上げて一族郎党滅ぼしても後腐れのない家の娘として選ばれたのであろう。柯隼様にではなく、聯国にでもなく、燎飛様側の都合で。

 それを、玉の輿だ、青国が認められたと浮かれ騒いだ母上たちの何と愚かなことよ。

 ああ、気分が悪い。

 何故わたくしは王の娘などに生まれついたのか。

 柩から柩へ置場所を変えられたわたくしはついに、なまぐさい争いに直に触れてしまった。

 忌々しい。わずらわしい。

 ……その時、進み出た一人が偽女官の切り落とされた手をつまみ上げた。


「これはまた。は随分な使い手だ」


 たちまち空気が一変した。寝間着に上衣一枚肩に引っ掛けて刀をげているのは、誰あろう我が夫、この聯国の第二王子、柯隼様だったのだ。

 わたくしは急いでその場に膝をつき、刀を床に置いた。護衛たちも刀を納める。


「申し訳ありません。お見苦しいものをお目に掛け」


「構わぬ、面白い。置物のような女ならば何なと取り替えもきくが、このような反骨の火を持つ女は得難い」


 血の海を前にして飄々とした遊び人風のこの王子は、表向きいい加減に振る舞っていながらその実、暴虐な兄君を差し置いて王位継承を望まれている。父王の死が近い今、実の兄に命の取り合いを挑まれているにしては毎日へらへら笑っているのがわたくしには不安だったけれども、実際には昼夜問わず情報を集め、居ながらにして戦しているのだ。


「斬り口に躊躇ためらいがない。こうしたものには性格が出る。兄上はお前を取るに足らぬ無能の田舎女と思ったのであろうが、俺にとっては願ってもない掘り出し物だな」


 ぶら下げていた手首を刺客の女の方に放り、わたくしに真っ直ぐ近付いてきた柯隼様は、ご自分の上衣を脱いでわたくしに着せ掛けながら後ろの護衛たちを見て言う。


「その慮外者を連れて、早く下がれ。俺の妃が寝間着一枚でいるのをいつまでも見ているんじゃない。いくらお前たちでも目玉をえぐり出したくなるだろうが」


 ふっと護衛たちにも笑いが生じ、それでわたくしはようやく気がついた。皆、柯隼様が特別信頼する者たちであることに。これはもしや、今日この場に刺客が忍んで来ることを想定済みであったのか。

 笑顔を見せて一礼し、女を引きずって出ていく者たちの態度には、わたくしに対する侮りはもう感じられなかった。

 人払いの済んだ早朝の寝所で、柯隼様はわたくしの肩に両手を掛けたまま問う。


「あの者が刺客と何故分かった」


「作法通り振る舞う女官も、身体の動きは皆違います。あれは、これまで見たことのない女でした。わたくしの見覚えぬ新任の女官などいないはずでございます。それに、杯の水の揺れ方が違いました。色こそないものの、あれは何か入っておりました」


「なるほど。ではもう一つ」


 ぐっと抱き寄せられ、わたくしの頬が柯隼様の着物の胸にぶつかる。頭の奥に警戒の火花が小さくぜた時には、もう声が降ってきていた。


「……俺と過ごすねやに毎回、刀を持ち込んでいたな?」


 しまった。

 床に置かれたままのわたくしの刀。確かにずっと、布団の下に忍ばせていた。取りようによっては、謀叛のくわだてありと取れぬでもない。実際、初夜の段階では、事と次第によってはこの男を殺してわたくしも死のうと思っていた。

 柯隼様の手が刀を拾うのが見える。あるいはここで一突きに成敗されるのかも知れぬと唇を引き結んだが、その血濡れた切っ先はわたくしの胸でも喉でもなくもっと高いところへ浮き上がった。


「実に良い刀だ。青国に伝わる小太刀『絶歌』とはこれか」


「え?」


「血濡れた寝所でお前を抱くのも戦時らしく一興かと思ったが、この刀をいためては惜しい。すぐ手入れしよう」


「わたくしへの、おとがめは」


「ない。これほど度胸のある女が、今日まで俺を殺す決心がつかずにいたとも思えぬ。幾らでも俺の首をとる機会はあった」


 屈託が無さすぎる。

 何も言えずにいるわたくしを柯隼様が見下ろしている。この顔は見たことがある。腹心の者たちと語り合っている時の顔。身内に見せる顔だ。


「夜にはお前の戦果を祝おう。

 おめでとう、しょう、我が妃よ。よく戦った。今日からはお前も戦力のうちだ。お前はいずれこの聯の王妃になるだろう」


 雷に撃たれたように心が震えた。

 ああ、わたくしは今、初めてほんとうの祝いの言葉をたまわった。

 国ではなく、わたくし自身に祝いの言葉を賜った。

 頭がくらくらする。

 この方にはわたくしが見えているのだ。

 これが我が夫か。これが――ただ殺されるに任せず、実の兄をしいしてでもこの大国、聯を統べようとしている男か。




 後に聯国王妃となるこのわたくし、大聯に血宴の戦姫ありとうたわれた『絶歌』の璃唱。その魂がこの世に生まれ落ちたのは、まさにこの朝のことであった。

 初めてわたくし自身を認め、祝った夫の言葉を、わたくしは生涯忘れることはない。

 それゆえに生き、それゆえに戦う。

 これは、わたくしの天命が定まった朝の物語である。






〈了〉

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