第19話 啓蟄 花は咲く
スナネコは森の中に入った。
空気は日に日に暖かくなり、森の地面を覆っていた雪もほとんど融けてしまっていた。
森を抜ける風はもう冷たくなかった。
風の中に、新しく芽吹いた自然のにおいが混ざっている。
スナネコは、シマフクロウに渡された笛を取り出すと、大きく吹き鳴らした。
笛の音が、木々の間に吸い込まれていく。
やがて、シマフクロウが音もなくスナネコの前に降りてきた。
シマフクロウは、人一人くらいの大きさのものを毛布にくるんで、腕に抱えていた。
それがツチノコであると、スナネコにはすぐにわかった。
「時が来たな。ツチノコはこの中にある」
シマフクロウは感情のない声で言った。
スナネコは、突然心の中に冷たい風が吹いたような気持ちになった。
「ツチノコは治ったんですか?」
スナネコが恐る恐る聞くと、シマフクロウは黙って頷いた。
彼女は大きく息をついた。
「それで、お前は私に何を差し出すか決めたのか」
「はい」
シマフクロウの目つきが鋭くなった。
スナネコは一度深呼吸すると、シマフクロウの目を正面から見返した。
「ボクのおうちを、あげます」
* * *
シマフクロウは、スナネコのいうことを聞きながら、一切何のリアクションもしなかった。
目つきだけで、スナネコにさらなる説明を促す。
「ボクのおうちは、ボクとツチノコが、ずっと探してきたものでした。ボクとツチノコにとって、とっても大切なものです。だから、ボクのおうちをあげます」
「いいのか。お前のおうちは、お前たちがいままで生きてきた、目的そのものではなかったのか」
「はい。ボクとツチノコは、ずっとおうちを探して歩いていました。きっとおうちが見つかったら、ボクはそこでずっと楽しく生きていけると思っていました。だけど、おうちをずっと探していたせいで、ずっと見つからないせいで、ツチノコが倒れてしまいました」
シマフクロウは黙って聞いていた。
「今までボクは、おうちが大事で、ツチノコがいなくてもおうちがあればいいと思っていました。きっとツチノコも、そう思っていて、だから体よりも、ボクのおうちを探すことを大事にしてくれていたんだと、思います。でも違うんです。たとえおうちが見つかったとしても、ボクはツチノコがいないと……ツチノコの方が大事で……」
「だがお前は、お前のおうちを失くしたとして、これからツチノコと何をするのだ」
「ボクは、ツチノコと一緒にいます。それだけでいいです。一緒にいることができるなら、ずっとおうちが見つからなくてもいいです」
スナネコは最後まで言い切ると、震える足を踏ん張りながら、シマフクロウを凝視し続けた。
森の中に、緊張した沈黙が張り詰める。
やがて、シマフクロウがゆっくりと口を開いた。
「そうか。お前は……お前は、本当に知らないのだな。お前たちのことを」
スナネコは、シマフクロウの言っていることが分からなかった。
「どういうことですか?」
「お前の……お前のおうちは、ない」
「え?」
「ない。お前は故郷を忘れたのではなく、もともとこの世界で生まれたものではないのだ」
スナネコはひどく混乱した。
「そんな、おうちがないって、じゃあボクはどうやって生まれたんですか?」
「私は知らない。しかし、お前の中にあるそのかがやきは、この世界のものではない」
「それは……」
「お前は、ここではない、この星のどこか別の土地、別の時間で生まれた。そして何らかのことがあり、この世界にやってきた。飛ばされてきたという方が正しいかもしれない」
「そんな、でも、何があってそんなことが」
「それが聞きたいのは私だ。力あるものならまだしも、こんな凡庸なフレンズに対して、こんなことはあってはならない。いったい誰が、何のために、お前たちの手を引いて、こんなことをしたのか……」
と言って、シマフクロウは毛布にくるんだツチノコを見た。
「こいつなら、知っていたのかもしれないがな」
スナネコは俯いてしまった。
突然の情報に、心の整理ができなかった。
「ボクのおうちは……ないんですか……?」
「この世界、お前たちがその足でたどり着けるこの土地には、どこにもない」
「そんな、でも、じゃあツチノコはなんでボクのおうちを」
「私は知らない」
「ツチノコは、それを知ってたんですか?」
「知らないな」
シマフクロウはぶっきらぼうに答えた。
「こいつの体はこの土地のものだ。しかし、こいつの輝き、記憶にも、お前と同じ別の世界のものが混ざっていた。もしかしたら、こいつとお前は別の世界で何かを受け、この世界にやってきたのかもしれない。こいつは輝きだけ。お前は体ごと」
「そんなことが、あるんですか」
「あってはならん。この世界のバランスが崩れる」
シマフクロウは厳しい顔をしたが、口調を弱めて続けた。
「だが、起こってしまったものは仕方ないだろう」
スナネコは、張り詰めていた緊張の糸が切れて、膝をついた。
* * *
「ボクのおうちは……じゃあどうしたら……」
シマフクロウは、気の抜けてしまったスナネコに歩み寄ると、上から見下ろした。
「お前のおうちがこの世界になくとも、この星のどこかにはある」
「ほし……?」
「お前にとってはなくとも、私にとってはあるということだ。あるいは、この星の記憶、お前の記憶の片隅に、お前のおうちは残っている」
きおく、とスナネコはつぶやいた。
もやがかかってよく分からない、ツチノコと歩き始める前の思い出。
暗い壁、まぶしい外、熱い風、星。
「お前の意識が思い出せなくとも、お前の輝きの中にそれは残っている。対価としては十分だ」
「どういうことですか」
「お前の輝きの、前の世界で蓄えられた分のものをもらおう。これからお前は、この世界で取り込んだ輝きで生きていくのだ。もとの世界には二度と戻れなくなるが、まあ戻るすべも知らんのだろう」
「ボクのかがやきを、取るんですか」
「そうだ。その中に、もとの世界のお前のおうちがある。私はそれを取り、お前はツチノコを取る。そしてお前とツチノコは、もとの世界に戻ることもなく、この土地に還っていく。それでいいだろう」
スナネコは、毛布にくるまれたツチノコを見た。
自分と歩き始める前に、いったい何があったのか。
かがやきとか世界とか、いったいどういうことなのか。
シマフクロウと取引をしたら、その「もとの世界」であったことを二度と思い出せなくなるのか。
「もとの世界」でもしツチノコとスナネコが一緒にいたとしても、そのことを思い出すことは、二度とできなくなるのではないか。
様々な不安がスナネコの胸中に沸き起こった。
やがてスナネコは、シマフクロウを見上げていった。
「わかりました。ボクの輝きを、あげます」
シマフクロウは右手をスナネコの胸にかざした。
するとスナネコの体が虹色に光りだし、シマフクロウの手がスナネコの胸にずぶずぶと沈んでいく。
「お前の故郷の輝き、確かにもらい受ける」
スナネコの心の中に何かが強引に入り込み、スナネコはわけもわからず気を失った。
* * *
夢を、見ていた。
スナネコは大きな洞穴の中に座っていた。
座っている地面は、砂の手触りがする。
外ではカンカンの太陽が、どこまでも続く砂の大地を照らしているようだ。
「なんだァ! お前!」
とツチノコが洞穴の隅で自分を威嚇している。
その様子が愛おしくて、スナネコはツチノコに手を伸ばした。
ツチノコが、スナネコの抱擁に緊張して固まっているのが、腕越しに伝わる。
そのままツチノコを抱きしめた。
「ただいま。ツチノコ――」
外の風景が崩れていく。
洞穴もガラガラと音を立てて崩落する。
ツチノコの姿ももう分からない。
スナネコの体もばらばらになって、意識だけが虚空に浮かぶ。
最後に一粒の輝きが瞬いた。
* * *
スナネコは目を覚ました。
気が付くと、スナネコは先程の森の地面に寝かされていた。
起き上がると、途端に頭がくらくらした。
「輝きを抜き取られたのだ。しばらくはおとなしくしていろ」
シマフクロウが言った。
「これでお前は、もとの世界とのつながりが完全になくなった。体はまだもとの世界のものだが、この土地に根をおろせば、それもじき薄れる」
スナネコはゆっくり起き上がると、近くの木の幹に体をあずけた。
「ボクの記憶は、残っています」
「この世界に来てからのことは、別にいじってはいない。お前の意識の中では何の変化もないだろう」
スナネコの横に、ツチノコが横たえられた。
シマフクロウが毛布を取ると、健康そうな寝息を立てているツチノコが現れた。
スナネコは胸がいっぱいになった。
「お前のツチノコだ。病は癒えたが、そのために大量のかがやきを入れ替えた。だからその……」
シマフクロウは言い澱んだ。
「どうしたんですか?」
「……こいつの体はほとんど変わっておらんが、中身はほとんど変わってしまった。もしかしたら、人格や記憶まで変わっておるかもしれん」
スナネコは言葉を失った。
「救うとは言った。私は救った。それだけだ」
シマフクロウは、二人に背を向けた。
「……ちょっと待ってください」
「そいつを大切にしろ。二度目はないぞ」
シマフクロウは飛び上がると、あっという間にスナネコの視界から消えた。
スナネコは呆然として、木々の間の虚空を見つめていた。
* * *
ガサゴソという音を立てて、ツチノコが身じろぎした。
スナネコはツチノコに飛びついた。
「ツチノコ! ツチノコ!」
ツチノコは目を開けた。視界いっぱいに広がったスナネコの顔を、不思議そうに眺める。
「お前は……誰だ? 私は……?」
スナネコはツチノコを凝視していた。
紛れもない、今までずっと歩いてきた、ツチノコ本人だ。
スナネコの頬を涙が伝った。
震える手で目を拭う。
「お前、どうして泣いてるんだ?」
ツチノコが不安そうに聞いた。
「ツチノコ……あなたは、ツチノコです」
「私は……ツチノコ……?」
「そしてボクは、スナネコです」
「スナネコ……」
ツチノコは頭が次第にはっきりしてきたようで、スナネコに早口で質問した。
「お前、私の知り合いなのか?」
「はい。ずっと前から、一緒にいました」
「そうか」
彼女はしばらく考え込んでいたが、やがて頭を抱えてしまった。
その仕草は、今までずっと一緒に歩いてきたツチノコと変わらなかった。
「すまない。たった今ここで目覚めるまで何をしていたか、全然思い出せないんだ」
「ボクもです。ボクも、前は何をしていたのか、忘れちゃったんですけれど……でも、気づいてからは、ずっとツチノコと歩いていました」
「歩く?」
「はい」
「何のために?」
「わかりません」
ツチノコは納得していない顔をした。
「なんだそりゃ。そりゃまるで逃避行だ」
「とうひこう?」
「なんとなく、行く当てもなくさまようというか……私はどこでこの言葉を聞いたんだ?」
記憶も口調も違ってはいたが、ぶつぶつと一人で考え事をする彼女は紛れもなくツチノコだった。
スナネコはもう泣いてはいなかった。
「これからどうしますか?」
「どうするって、私たちは今までどうしてたんだ?」
「今までは、ずっと、おうちを探して……」
「おうち……?」
ツチノコは、初めて聞いたはずの、しかし妙になつかしさのある言葉をかみしめていた。
「スナネコ。『おうち』って、なんだ」
「わかりません」
ツチノコは見るからに不服そうな顔で、スナネコに抗議を示した。
「なあ。ここはどこなんだ? それにすごく寒いし」
「ここは……どこなんでしょうか」
ツチノコはきょとんとしたあと、愉快そうに笑った。
「これはとんだ迷子だな」
そのツチノコを見ていたスナネコは、自然に彼女に話しかけていた。
「帰りましょう。ツチノコ」
「帰る?」
「ボクたちのおうちに帰りましょう。きっと歩いていたら、見つかるはずです」
スナネコは立ち上がると、ツチノコの手を取った。
ツチノコの手が、確かな力で握り返してくる。
「『おうち』ったって、私は何も覚えてないぞ」
「ボクも何も覚えてません」
「ええ? じゃあお前、どうやって探すんだよ」
スナネコはツチノコの顔を見た。
「どこでもいいんです。どこか落ち着いて過ごせるところを見つけたら、そこをおうちにしましょう。ボクはツチノコと一緒にいられるなら、どこでもいいです」
ツチノコはスナネコから目をそらすと、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「変な奴」
「ツチノコに言われたくありません」
スナネコは歩き出した。
ツチノコが横に並ぶ。
「なあ。今までの私って、どんな奴だったんだ?」
「そんな感じですよ」
二人は森を抜け、草原に出た。
暖かくなった風が二人の髪を揺らす。
地面には花が咲き、緑の地面を鮮やかに染めていた。
一年目 了
けものごよみ とがめ山(てまり) @zohgen
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