町にはオメデトウが溢れている
静嶺 伊寿実
或る町の挨拶
今日から新天地での生活。
シャワーを浴びてひげを剃り、アイロンをかけたYシャツに袖を通して、ネクタイをきゅっと締める。クリーニングをしておいたスーツは、黒くシワひとつない。
雪国の春はまだ寒い。薄手のコートを羽織り、マフラーを巻いて会社鞄を持って玄関に向かう。
よし、今日から新しい職場、しかも本店だ。靴べらを持つ手にも気合いが入る。
ぴかぴかに磨いた靴を履いて、出発した。
豪雪地帯特有の広さと寒冷地帯特有の所々陥没した道を歩く。風は強く吹き付けていたが、雪が無いので歩きやすかった。住宅街は静かだ。
通行人は俺一人。
渋滞とは無縁の国道を沿って行くと、四階建ての古いコンクリートの建物が見えてきた。この町ではかなり高い建物だ。
あれが新しい職場か。
クリーム色の壁はひびが入って、ペンキが
入ると、コンクリート打ちっぱなしの倉庫だった。脇に使用済みのダンボールが重ねてある。倉庫には女性が一人、「ようこそ」と色画用紙に手作りで
入り口を間違えなくてよかった、と安堵した。
紙を持った女性は、ピンクのシャツに紺色のベストとスカートのオフィススーツを着ている。本店ならではの制服だ。
「おはようございます、
女性が俺に話しかけてくれる。
「はじめまして。よろしくお願いします」
「どうも、おめでとうございます。こちらへどうぞ、ロッカーへ案内します」
倉庫の奥の階段を上り、三階へ出た。エレベーターは運搬用で、余程の荷物が無い限り使ってはいけないらしい。
蛍光灯がまばらに
「おめでとうございます。このロッカーが
鍵を渡され、早速コートをロッカーに入れた。ハンガーは無く、使うなら持参してくれとのことだった。
次に席へ案内される。スチールの机に、四脚のキャスター椅子が備えられていて、パソコンは黒くて小さいノート型だった。女性は席に案内するだけすると、「では私は総務室へ戻ります。おめでとうございます、分からないことがあれば聞きに来てください」と言って去った。
隣の席の男性がこちらを見て、話しかけて来る。
「おめでとう。今日からよろしくお願いします」
「どうも。よろしくお願いします」
「おめでとう、朝礼が始まりますよ。行きましょう」
部屋にいた人々が黙って同じ方向へ進んでいた。俺も
朝礼は総務が進め、皆で
「おめでとうございます。今日から
総務の紹介で前に出る。
「おめでとうございます!」
本店の全社員から拍手で迎えられる。俺の一言を待っている雰囲気になった。
「今日から頑張ります。よろしくお願いします」
「おめでとう!!」
拍手で朝礼が終わった。
その後も「おめでとう、今日からよろしく」といろんな人から言われ、パソコンのID設定に来た
手続きに必要な各書類を総務へ持って行くと、「ありがとうございます、これで確認が取れました、おめでとうございます」との言葉を受け、部長からは「期待しているけど、まあ頑張りすぎないように。おめでとう」と激励を受けた。
新しい仕事を覚えるたびに「おめでとう、その調子でやってみて」と言われ、取引先の人からも「おめでとう、素敵な方ですね。何卒よろしく」と挨拶される。名刺を渡した時も「ああ、どうもおめでとうございます」と褒められた気分になる。
そんな日が数日続いた。
たまには仕事終わりに寄り道して帰ろう、と
二階建てのスーパーマーケットは、二階が駐車場、一階が生鮮食品や飲食店、服や靴などの売り場となっていて、飲食店を兼ねたフードコート内にドーナツ屋がある。外観は一階と二階をピンクと白で塗り分けているが、白がうすピンクのように劣化していて、看板も黒くくすんでいる。
閑散とした売り場を抜けて、フードコートへ向かう。綺麗に並べているつもりの靴や服や雑貨も、まるで倉庫裏に待機している在庫のような扱いに見えるが、単に俺が服に興味が無いだけなのかもしれない。
ドーナツを三つ選び、トレーに乗せて会計する。
「ご来店おめでとうございます。お持ち帰りですか?」
「店内で」
「おめでとうございます、只今お飲み物がセットでお安くなりますが、いかがですか?」
「結構です」
「かしこまりました。ドーナツが、おめでとうございます、三つで587円になります」
黙って千円札を出す。
「千円から頂戴しましたので、おめでとうございます、413円のお返しになります」
お釣りと皿に盛られたドーナツを受け取る。
その後も店員はたまに来る客に「おめでとうございます」を繰り返し、言われた客も「おめでとう、一万円札でいいかしら」と返していた。
俺はその様子を見ながら、もちもちのドーナツを口に入れる。チェーン店のドーナツの味は、人口二万人の町でも都会と変わらず美味しかった。
一ヶ月ほどして、遠距離恋愛になっている彼女が遊びに来ることになった。
朝一番のバスに乗ってくるので、俺もその時間に合わせてバスの到着地である駅へ向かう。
土曜日の朝は町が静まり返っていた。国道沿いも駅前通りの商店街も全ての店のシャッターが降りていて、歩道に点在する自動販売機だけが稼働していた。
車一台通らない国道や駅前通りの信号を律儀に守って、駅前の広場に着いた。平屋建ての駅は全体的に
バスは駅から少し離れた路上で、すでに停車していた。
トレンチコートにロングスカートを着た彼女が、俺を見つけて手を降る。パステルカラーで統一された服装は、春っぽくはあるがこの町には眩しく、長い髪も首元のスカーフもドラマのように風になびいて、丸っきり外から来た人だった。
「おつかれさま。この町に来て、おめでとう」
俺は長距離を移動してきた彼女をいたわる言葉をかける。
「え?」
こんな言葉をかける俺が珍しいのか、彼女はきょとんとする。
「こんな遠くまで、おめでとう。大変だったでしょ」
「
なにがだろう。
「長距離バスに乗って来てくれた
彼女は首をかしげる。
「あたし、なんかした?」
「なにがだい? おめでとう、
「ごめん、やっぱりあたし帰るわ。ここ駅だから待っていればその内帰りの列車が来るわよね、そうよね。ごめんね、来たばっかりで。でも、あなた変わったわ」
「そうかな。変わったとは思わないけど、おめでとう、
彼女は眉を互い違いにさせて、口が開いたままになった。なにか、この世ならざるものを見たように硬直させている。
俺は近くの自動販売機でコーヒーを買うことにした。なにか飲み物を飲めば彼女も落ち着くだろう。
自動販売機に小銭を入れる。
『いらっしゃいませ、おめでとうございます』
今どきの自動販売機は音声機能もついている。
『おめでとうございます、冷たいお飲み物がおすすめです』
俺はアイスカフェオレを選ぶ。
『おめでとうございます。その商品は売り切れております』
仕方ないな。アイスティーでもいいかな。
『おめでとうございます』
と小さなボトルのアイスティーが出てくる。
『只今抽選中です。数字をよく見てね。おめでとうございます』
四桁の数字が並んだ。当たった!
『おめでとうございます。もう一本選んでね。おめでとうございます』
「ねえ、当たったけど、なんか好きなの飲む?」
俺の問いに彼女は答えない。気味悪がって、自動販売機に近付こうとも俺と口を聞こうともしない。
『おめでとうございます。もう一本選んでね。おめでとうございます』
自動販売機が繰り返す。
「おめでとう。当たったから早くおいでよ」
彼女は駅へ向かって駆け出した。
「おおい。当たったよ! おめでとう! おおい、おめでとう、気をつけて。おめでとう!
」
―終―
町にはオメデトウが溢れている 静嶺 伊寿実 @shizumine_izumi
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