天使のパンツが舞い降りた。

チクチクネズミ

天使のパンツ

 天使の羽は、パンツから生えているものだと幼い頃の記憶を未だに覚えている。そしてハルのお尻がそのまま顔面に直撃したのもよく覚えている。

 彼女と出会った時、俺にはかわいいとも一部たりとも思わなかった。端的に言えば人見知屋で何を考えているか分からなかった。ましてや天使であるということさえも感じなかった。

 しかし、あの時俺の目にははっきりとハルは天使の証である羽が生えていた。

 俺は何度もあの羽が生えていることを確かめたく、好奇心からハルのスカートに手を出した。


――やだっ!やめて!


 膝まであるふわふわのスカートの下に俺が求めていたものはなかった。あるのはハルの嫌がる悲鳴だけだった。

 俺は母さんに怒られ、ハルに謝罪した。けど視線はハルにでなく、そのスカートに目を向いていた。あの羽はどこに行ってしまったのだろう……

 俺はあの天使の羽を追い求めて、天使の彫刻や絵を何度も見比べてた。しかしどんな幻想的な絵であろうと、優美さにあふれると評するものであろうと、俺が見たあの本物の羽と違っていた。

 だからだろうか。俺の描く天使にはパンツに羽が生えている。


――


 

 茜色に染まりつつある美術室で、俺は鉛筆を走らせてカンバスに下書きを走らせている。かりかりと黒鉛が削れる音だけが鼓膜に響く。だが、その書いた線が気に食わず、その線は黒いゴムのカスにへと変貌した。そして消しカスは、開いた窓から入ってきた風吹かれて消えていった。

 また鉛筆を手に取ると、美術室の扉をノックする音が聞こえた。


「ミキ、まだ終わらないの? あたし生徒会の仕事終わったからもう帰っちゃうよ」


 ハルがドアから覗き込むように顔を出すと、彼女のさらさらのロングヘアーが垂れた。小さい頃とは異なるはきはきとしたハルの呼びかけに手を休めず、口だけ動かして答えた。


「うまく描けないんだ」

「またパンツを穿いた天使? よく飽きないね」


 いつの間にか、ハルは俺の隣で椅子を持ってきて未完成の絵を覗いていた。ハルのスカートのすそから伸びる瑞々しく彫像のようにつるりとした腿が俺のズボンに密着しそうになると、少し椅子をずらした。一瞬触れた素肌は彫刻とは異なり、できたてのプリンを触ったときみたいで、線が歪んでしまった。

 黒鉛筆で描かれた天使は、パンツを穿きそこから二枚の羽が生えている。通常は背中から生えているが、俺の天使はお尻からだ。みんなからは変だとおかしいと言われた。先生は個性だと褒めていた。けど全部違う。本当に天使はパンツから羽が生えていた。

 見たままの描写のはず。けど今までその天使を描き上げたことは一度もない。


「飽きないんじゃないんだ。納得のいくものが描けていないんだ」

「そんなに何べんも描いていたら、お腹すくでしょ。ほら購買のパン余ってたから買ってあげたわ。あとでお金返してね」


 「ん」と空返事してビニールに入ったメロンパンを口にくわえながら、また鉛筆を動かした。

 ……ん。違う、こうじゃなかった。ああだめだ。

 口に広がるメロンパンの甘さと違い目に入ってくる不味さに辟易しながら、また鉛筆を動かしては消す。まるで賽の河原の石積のようだ。


「ねえ、その天使って何かモデルとかあるの?」


 その質問に俺は首を縦に振って答えた。けどメロンパンはくわえながら。モデルはハルだと答えなかった。

 小さいときにハルが落ちてきた時に見えたパンツの羽を思い出しながら、それをずっと描き起こしてきた。けど、それを伝えるのはハルにとって酷だからだ。だって、彼女のパンツを見た時のがモデルだと伝えればきっと彼女は俺が小さい頃にしでかしたことを思い出すだろう。


――やだっ!やめて!


 思春期真っ盛りの時期になってその声は罪悪感を伴って蘇ってくる。


「その人ってやっぱり女の人?」


 こくりと頷く。


「パンツを見て描いたの?」


 ハルは自分以外の女の人がモデルだと勘違いしている。彼女を傷つけないならその嘘でいいだろう。だから俺はまたも頷いた。


「ねえ、その人で煮詰まっているなら……あたしがモデルじゃだめ?」

「えっ……」


 甘く浸されていた口内は、ハルが与えた甘さに驚き、メロンパン落としてしまった。視線をハルに向けると、体を前に出して下から見上げていた。


「パンツを見せることになるんだぞ。お前、小さい頃嫌がっていただろ」

「小さい頃の話でしょ。そりゃそうでない人でなら、誰だっていやだもの。ミキなら……そうでもないから」


 ハルは膝に置いた握りこぶしに力を籠めると、同時にぎゅっと唇も同じような動きを舌。閉じた唇は夕暮れということもあって淫靡で濃淡なピンク色だ。

 まるで俺を誘うかのように。


「ダメだって」

「でも」

「ダメ」


 俺の答えはノーだ。きっとそうやって見たものでは天使の羽は見えないのだとどこかで分かっていた。邪な心では天使の羽は見れないことは小さい頃、俺がその身で理解したからだ。そうでなくても俺にはそんなことできない。


 俺はハルのことが好きだから。


「どうして、あたしは――」


 ぅにゃー


 ハルが訴えようとした時、窓の外から猫の声がした。小さい声だったから声子猫であると予想できる。しかし窓の外には声の主はどこにもいない。ハルが身を乗り出すと、上を見上げてそこを指さした。


「ミキ、木の上! 子猫降りられなくなっている」


 絵の作業を止めて彼女の指したところ見ると、白い子猫が枝の所で体を小さく震えている。すると、ハルは窓を越えて木を上り始めた。


「子猫助けに行ってくる」

「ハルお前高所恐怖症じゃなかったのか」


 ハルは、子猫がいるところまで半分まで行っていた。そしてしばらくの沈黙の後声が返ってきた。


「子供の時の話でしょ。もう克服しているから」


 そう言って、彼女は再び上り始めた。どうだか。昔もそう言って結局降りられなくなったじゃないか。あの時も今とは違い、人見知りで臆病だったくせに子猫を助けに行って……


――


「ハル、お前高いとこ苦手だろ。足震えているぞ」

「でも子猫がかわいそうだよ。ほおっておけないもん。――ほら大丈夫……じゃないよ。降りられない!」

「ほら言わんこっちゃない。俺が受け止めてやるから」

「ミキがトマトジュースになっちゃうよ」

「なるか! いいから、俺を信じろ」

「……うん。受け止めてよミキ」


――


 そして落ちてきたときに、ハルのパンツには羽が生えていた。不思議なことに、痛みがなかった。羽が羽ばたいて、俺の痛みを軽減してくれたのかと思ったが、たぶん気のせいであると考えていた。


 ようやく子猫がいる枝に上ると、子猫は闖入者が来たことに毛を逆むけて警戒心をあらわにした。


「ほらおいで、こわくないよ」


 ハルが手を差し伸べると、子猫は急に大人しくなって彼女の手の中に入っていった。一部始終を見守っているとふわり一枚の純白の羽が舞い降りてきた。羽の部分は俺の手よりも大きくかなりの大きい鳥であるはず。しかし、近くに鳥が羽ばたく音は聞こえない。姿さえも、ない。

 けどその羽はどこかで見たことがあった。


「ミキ助けて! 下を見たら降りられなくなった!」

「結局克服していないじゃないか。ほら俺が受け止めてやるから」

「無理だって。あたし結構重いからミキのへちゃむくれの顔がもっとへちゃむくれになるかも」


 縮こまりながらハルは俺の顔を侮辱した。まったく、口だけは達者なんだから。

 俺は窓を越えて手を大きく広げた。


「ほら、俺を信じろって」

「……うん。気をつけてよね」


 ゆっくりと枝から足を出して降りようとした時、風もなく彼女のスカートから捲れ上がった。――パンツからパンツと同じく純白な天使の羽を生やして。

 大きく広げた羽は白鳥を思わせるような大きさで、一体どういう構造で羽ばたいているのかわからないが、子猫を抱えたハルをゆっくりと降ろしていた。

 まるで天使が舞い降りてくるような、いやハルはやっぱり天使だった。

 怖がりなくせに、誰かのために心配してくれる彼女はやは天使だった。

 ゆっくりとハルのパンツから生えた羽は、ハルを俺の腕の中に降ろすとまるで初めからなかったかのように一枚の羽を残さず消えていった。腕の中でハルは夕日の茜と同じように顔が染まり、どう反応してよいのかわからず苦笑していた。


「ハル」

「なに?」

「俺が描いている天使のモデルは――ハルなんだ」


 ハルは嘘をついたことには言及しなかった。


「どうしてあたしが?」

「ハルが天使そのものだから。だからモデルになってくれないか」







 後日、俺の絵は完成した。『子猫を助ける天使』という題で、モデルである彼女と一緒に手をつないで。

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