第13話:怨毒鳥

「はぁ……」


 夏期休業期間でなければ――賀留多や飲食物、あるいは書籍等々を求める生徒で溢れ返る購買部には、一人の店員も客もおらず……。


 さめざめと泣くトセだけがいた。購買部前の休憩スペース(生徒達はイートイン、と呼んでいた)に腰を下ろし、足音一つ聞こえない廊下の向こうを、涙で揺らめく視界に入れた。


 あの階段を上れば、はすぐなんだけど……。


 ハンカチで顔を拭いたトセは、上り慣れた階段を駆けて行き、唯一言、「ごめんなさい」と目代に言おうと思った。思っただけで、身体が言う事を聞かない。




 どうしてあの時、すぐ先輩に謝る事が出来なかったんだろう。


 私にとって、《姫天狗友の会》は……どんな繋がりよりも大事だったのに……。




 トセは実に社交性の高い少女であった為、仮に目代や宇良川――龍一郎と縁遠くなったとしても、同じクラスは勿論、一学年に沢山の友人がいた。「想い人の件」を語り合う親密な間柄も、一人や二人では無かった。


 実際――彼女は何ら問題無く、この花ヶ岡をいけた。


 生きるだけなら……充分に可能であった。そしてトセは生きるという行為以上に――。


 を強く求めていた。一重トセという少女の日常を彩っていたのは明らかに近江龍一郎であり、宇良川柊子であり、目代小百合であった。この三名と気軽に交流出来なくなるのは余りに辛く、悲しかった。


「……っ」


 涙でふやけてしまいそうな頬を叩き、口内で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。部室の扉を開け、目代に開口一番届ける言葉だった。


 踏み出す足の重さといったら!


 一五〇〇メートル走を走り終えた時よりも大きなは、先刻まで繰り広げた闘技以外にも理由がありそうだった。


 タン、タン、タン……とか弱げな足音が響く。静かな校舎はまるで生気を失い、中を歩いているだけで寂寞の渦へと巻き込まれるようだった。部室が近付くにつれ、トセの鼓動は次第に高まっていく。一〇歩に一回、「やっぱり帰ろうか」と踵を返したくなった。


「…………うぅ」


 校舎内部は無限大の広さを持たない。歩いていれば必ず――へ到着する。トセはソッとドアに耳を当て、室内の様子を探った。物音はしなかった。


 深呼吸を三回、タップリと行うトセ。それから胸を撫で下ろし……。


 扉を素早く叩いた。


「先輩、いますか」


 返事は無い。ドアノブを静かに捻ると、間も無くされている事が分かった。


 帰っちゃったのか――無念と安堵が入り混じる溜息が漏れた。


「メッセージは……失礼だよね」


 日を改め、対面して謝罪をしたかった。一度は目代の前から逃げてしまった負い目が、トセに重くのし掛かった。


 とりあえず、今日は帰ろう……トセは階段の方へと歩き出し、再びタン、タンと力無い様子で下りて行った。やがて一階に辿り着き、購買部の近くまでやって来たトセは――。


 窓の外を寂しげに見つめている、一人の女子生徒を認めた。上履きの色から彼女は三年生らしかった。


 あぁ、三年生だ――とボンヤリ思い、そのまま上級生の横を通り過ぎようとしたトセだったが……。


 何故かその場を動けず、窓の隙間から吹く風に髪を靡かせ、何処か儚げな横顔を見せる上級生を刮目してしまった。


 細い紐の上をフラつきながら歩く時の顔だ――トセが思った瞬間……。


「誰かしら」


 外に置かれた花壇を見つめつつ、謎の上級生が口を開いたのである。「私の事を言っているのかな」とトセは怯えながらも、確信が持てずそのまま黙していた。


 上級生はやはり視線を動かさず、今度は「の子?」と問うて来た。


 どうしてこの人は「監査部」かどうか尋ねたんだろう……トセは首を捻ったが、とうとう我慢がならずに「違います」と答えた。


「あら、ごめんなさいね」


 窓枠から手を離し、上級生はゆっくりとトセの方を見やった。




 痛み――のような感覚を、トセは背中一面に覚えた。寒気とも温みとも違う、その場で座り込んでしまいたくなる感覚だった。




「貴女、最近活躍している《代打ち》さんなの」


 時折、トセは廊下で知らない生徒と擦れ違う際、このような言葉を掛けられる場合がある。決まってにこやかに笑い、「応援お願いします!」とガッツポーズの一つも見せたトセだが……。


 この時ばかりは、消え入りそうな声で「ありがとうございます」と答えるだけだった。最低限の返答以外は禁忌に感じられた。上級生は音も無くトセの眼前まで移動し、井戸底のように暗い双眼で後輩を見つめた。


、さん。間違っているかしら」


「……はい、一重トセです」


「そう、良かったわ」


 上級生はトセの目元を指差し、「赤いけど」と平坦な声色で言った。


「泣いていたの」


「えぇっ? あ、いや……泣いていないですけど」


 そのは――眉一つ動かさずに上級生が言った。


「全く以て価値が無い。初対面のはずの私に嘘を吐く意味も無いし、鼻声や腫れぼったい目を隠していない」


「か、価値が無いって……」


「誤解しないで。価値が無いのは『嘘』の方。良ければ――少し、お話しましょうか」


「は、話……ですか?」


 トセはかぶりを振る事も、頷く事も出来なかった。少しでも眼前の上級生から視線を外せば、即座にな事態に陥る気がしたからだ。


 それ以上に……不可思議な吸引力を放つ双眼に、トセは文字通り――目を離せなくなった。


「そう、お話。私、一重さんに以前から興味を持っていたの。それはいけない事かしら」


「……い、いけなくないです。ありがとうございます」


 お名前訊いても良いですか――怖ず怖ずとトセが尋ねると、上級生は数秒の間を置き、酷く淡々と名乗った。


鶉野摘祢うずらのつみねよろしくね、一重さん」


 美味しいカフェラテでも飲みましょうか――鶉野摘祢は校門の方を見やった。

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