第12話:おトセちゃん
「早く撒いて下さい」
なおもトセは闘技の続行を願った。闘技に、しかも真剣の場に相応しく無いコンディションである事は明白だったが……トセは何度も深呼吸し、自身を落ち着かせようと努力しているようだった。
その実――トセの心を飲み込もうと押し寄せる「後悔」の高波が……幾度も幾度も、脆い防波堤を砕かんばかりに冷水が打ち付けられる。
心配そうに此方を見つめて来る目代を、確かにトセは恨んでいた。同じ女として看過出来ない、龍一郎に対する色目を何度も認めた。元来が物事を穏健に済ませたいトセにとって、「上級生による恋路の支障」は大変に苦慮する事態であった。
もしくは……目代が同年代なら、「私、あの人が好きなの」と遠回しに牽制する事も出来たであろう。しかし目代は年長者である、後輩からそのように伝えられても唯の相談事として受け止められ、「きっと上手くいくよ」と当たり障りの無い応援をされるだけだ。必要以上に他人の心配をする目代なら尚更だった。
邪魔をしないで下さい。そうハッキリ言えたらどれ程に楽か!
いや、彼に「付き合って下さい」……それだけ言えたら全て丸く収まるのに!
夏期休業が始まる前から悩み続けたトセは、一時期は龍一郎に「《札問い》で勝ったら付き合って下さい」と申し込もうか真剣に考えた事すらあった。
理想――独り善がりな夢がトセにはあった。至極単純なものだった。
付き合い始める時は、龍一郎から告白して欲しい。これだけである。これだけが……どうしても叶わずにいた。特殊な思想や諸事情がある訳では無い、唯、「男性に交際宣言を受けたい」という嗜好に過ぎない。
日が経つにつれて龍一郎への想いは強まり、同時に「恐怖感」が増してくる。男子より女子の方が圧倒的に多い花ヶ岡高校にいるだけで、龍一郎の価値は割り増しされてしまう。トセの友人に龍一郎のファンを名乗る女子生徒が現れた時、一層彼女の笑みを引き攣ったものにした。
トセは――龍一郎を取り巻く女性全てが怖かった。彼と同じクラスの女子生徒、自分の友人達は勿論、共通の友人である京香、《姫天狗友の会》一員の宇良川……そして、目代であった。
目代小百合という生徒は、
先輩、私の気持ちを分かっているはずなのに……トセの心には不満ばかりが募っていく。しかしながら《姫天狗友の会》メンバーかつ上級生なのもあり、トセは笑って誤魔化す事しか出来なかった。
そして――左山梨子という「伏兵」が出現し、目代に翻弄されるトセを横目に……龍一郎を攫って行ったのである。
龍一郎から電話越しに事実を伝えられた時、トセはふと、目代の顔が思い浮かんだ。最初……理由は分からなかったが、それはやがて「戦犯」である人物の選定結果であると解釈した。
あの人さえ邪魔しなかったら、もっと早くに私達は付き合っていたかも。
逆恨みであった。目代にとっては迷惑極まりないが、それでもトセは――左山梨子は当然の事、目代すらも仇敵に仕上げられてしまった。
憎むべき、討ち果たすべき仇敵の目代は……しかし、トセが心から愛する先輩であった。目代の優しさを、時折見せる子供らしさを、何もかもをトセは知っていたし、大変に好んでいた。
二律背反によってトセの内心は右へ左へ揺さぶられ、次第に傷付き故障していく。「私はあの人が好き」「私はあの人が憎い」……複雑怪奇な感情はトセを狂わせ、緩やかな自己破壊に導いていた。
キメラ的感情が成熟したのが昨日、焼肉屋の化粧室であるとしたら――。
老衰が始まったのが五分前……目代の「変えてはいけない」という警告がもたらしたのは明らかだった。
変えてはいけないものは、恐らく「打ち筋」だと予想は出来ていたトセだが、段々とそれは「自分らしさ」ではないかと考え出した瞬間――。
トセの脳裏に、《姫天狗友の会》で楽しんでいた日々が過った。輝きに満ちた日々を創り上げたのは紛れも無く「本来の一重トセ」であり、逆恨みに燃える「変わった一重トセ」には不可能であった。
そして……変化を望んだのは自分だった。
この時に限り、変化は「過去の否定」に転じるという事を、トセは水無月戦を迎えて知った。
加えて目代との関係を元通りにするのは到底無理だと悟ったのも、つい数秒前の事である。
「出来ない。泣いたままじゃ、自力を出し切れないでしょう?」
「出し切っても、出し切れなくとも……わ、私が負けるのは分かっています。早く撒いて下さい」
ポタポタと、トセの涙がスカートに落ちていった。
人の目に映る事の無かった「秘匿された涙」が、目代の心臓を小さな針で突き刺して回るようだった。
「一重さんらしく無いよ、そんなの。日を改めても良いから、今日は――」
「今日終わりたいんです!」
ひっ、ひっとしゃくり上げながら……トセは困惑する目代に訴えた。
「夏休みが終わる前に、私は現実をう、受け入れたいんです。す、好きな人も……居場所も、全部無くしたって事を……受け入れるんです。私は変わらなくちゃいけないから……!」
目代は泣き続ける後輩の傍に立ち、ソッと屈んで手を取った。小刻みに震え、今にも壊れてしまいそうだった。
「……私が勝っても、貴女を追い出したりしない。ごめんね、本当にビックリしたでしょう。つい、私もカッとなって――」
トセは激しくかぶりを振った。
「だ、駄目です。もう居られません。もう、私は……先輩に酷い事を沢山言って、凄く嫌な思いをさせて……自制心が……何もかもが足りませんでした……。私が悪いのに、でも止められなくて……。そ、そんな後輩は……要らないに決まっています。だから、だからせめて……」
ズズッと鼻を啜るトセ。吐息混じりの嘆願が、目代の胸を締め付けた。
賀留多で、私を終わらせて下さい。
刹那。目代の脳裏に、かつて彼女との《札問い》で敗北し、激怒する者、放心する者、そして――落涙する者達の顔が浮かんだ。顔はやがて重なり合い、目の前で号泣するトセの顔と一致した。
お前なんか鬼だ。横からいきなり出て来た癖に。賀留多を使って人を殺す鬼だ。
以前、目代に敗北した生徒が涙ながらに叫んだ言葉が……耳の奥で、再び聞こえた。呼応するように――初めてトセが《姫天狗友の会》を訪れ、目代と《こいこい》を打った時の光景が浮かんだ。
強い、本当に強いですね目代先輩! 決めました、私、《姫天狗友の会》に入りたいです! ここに通って、先輩と沢山賀留多を打って、楽しい高校生活を送りたいです!
宇良川先輩と三人なら、もっと色んな技法が打てますね!
そうだ、私の事、「おトセ」って呼んで下さい、その方がしっくり来るし……。
先輩に呼んで貰えたら、きっと嬉しいから!
「……っ、馬鹿な事を言わないでっ!」
部室に目代の怒鳴り声が響いた。トセは涙に濡れた顔を上げた瞬間、虚を突かれたように……赤い目を一杯に開いた。
「せっ、先輩……」
「貴女が抜けたら、《八八》だって《きんご》だって、それだけじゃない、他の技法も全部楽しく無いじゃない! 駄目、そんなの認めない! 何処にも行かせないから!」
トセの肩を掴み、目代は激しい声調で続けた。
「好い加減に生意気言うのは止めて! 唯一言、唯一言で何もかも無かった事にする、そうしたいの! ほら、おトセちゃん! 私に何か、言う事は無いの!?」
おトセちゃん――目代の口から渾名が飛び出した瞬間、トセの両目から大粒の涙が零れ落ち……。
「……っ、ま、待って!」
制止する目代に構わず、顔を袖で拭いながら――トセは廊下に駆け出した。
「待って、おトセちゃん! お願い、行かないで……!」
すぐにトセの後を追おうとした目代だったが、余りの「ショック」が彼女の両足を鈍くさせてしまった。目代はその場で倒れ込んでしまい、遠くなる足音を聞きながら……。
壊れていく日常の冷たさに怯え、独り――震えるだけだった。
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