第4話:攻撃擬態

 運ばれて来たココアケーキの重量感に、龍一郎と目代が苦笑いを浮かべた頃……。


 食事会に利用する焼肉屋から程近いところで、トセはバスを降りた。シフトチェンジの音を聞きつつ、手首を返して腕時計を見やった。


 まだ、三〇分ある。


 どう暇を潰そうか――などとトセは悩まない。予定通りだった。


 今回の食事会では幹事を務めている為、他のメンバーよりも早く着かねばならない……彼女は考えていた。ベージュのオールインワンに包んだ足は迷う事無く、通りを右に折れて進み、丁字路を左に曲がって行く。肉の焼ける良い匂いが一瞬、トセの鼻を擽って消えた。目的地は近いらしい。


「……っ?」


 スマートフォンが鳴った。メッセージの受信を報せる画面には、「宇良川柊子」と表示されている。高鳴った鼓動が急速に静まっていく。


『お疲れさまー! コンビニから近いところよね?』


 歩みを止め、電柱に身体を預けて「お疲れ様です! そうです、すぐ近くにありますよ!」と素早く返信する。先輩からの質問にはすぐ答える――トセの信条であった。


 やがてトセは焼肉屋に到着、店員に連れられ予約席へと向かった。


「まだ誰も来ていないですか?」


「えぇ、まだお越しになっていませんね」


 妙な安堵感を覚えたトセだったが、しかしながら……微かに「龍一郎が早く来ているかもしれない」と期待している節もあった。


 僅かな時間でも、二人切りになれたなら。


 なれたところで――何も変わらない事を彼女は知っていた。龍一郎が遠慮もしくは余所余所しくなる事も予想出来た。


 好転する隙は「今は」無い。無いからこそ、幸運のを欲していたのである。


「お水お持ちしますね」


 店員は慌てたように去って行った。四方から笑い声、ピンポンと店員を呼び付ける音で溢れかえっていた。安く美味い肉を出すと評判の店であった。


「お待たせしました。食べ放題は皆さんお揃いになってからですよね?」


「はい、もうちょっとで集まると思うんで待ちます」


 そう言って会釈してから、トセは冷たい水を一口飲んだ。身体が渇いたスポンジのように、冷水を急速に吸い込んでいくようだった。薄暗い照明の下で、「暇潰しの友」である小説を取り出し、栞を挟んだ箇所から読み始めた。


 段々と……彼女の周囲に溢れていた音は小さくなり、耳に膜を張ったようにくぐもった。騒々しい店内とは真逆に、トセは手の平大の文庫本から、森林を行く主人公の足音を聞いた。


 主人公は年老いた猟師であった。優秀な猟犬や新型のライフルを持たない彼は、面倒な整備を欠かせない古式の銃と、常に何かに怯えている雑種犬を連れ、まだ見ぬ大物を求めて、歩き慣れたはずの林中を行く。




 ……人間の私が笹原を踏み分け、道を作ってやらないとコロは歩きたがらない。コロは身体に纏わり付く草木の感触を嫌うのだ。その癖、身体にダニが着いていても気付かず、自身が自然物と隔絶された人工的存在であるかのように振る舞う。


 獲物を見失う、熊の糞に驚いて動かなくなる、無駄吠えはする……何度見捨ててやろうかと思ったが、私にはコロしかいない。ポインターとか、レトリーバーとか、そういった高尚な猟犬は、恐らく、彼らの方から私を不要とするだろう。


 私とコロ、この二つが組み合わさってこそ、ようやく一個の「猟師」となる。奇妙でがさつで、不満足な関係だが、それで良いのだと、この前の鴨猟を経て思い始めた。


 コロは泳ぎが不得意だった。にも関わらず、射撃を受けて湖面に着水した鴨を追い掛けて、コロは一目散に湖へ飛び込んだ。不細工な犬掻きで何とか鴨の場所まで行き着いたコロだったが、獲物を咥えて安心したのか、ヒンヒンと情け無い声を上げた。


 仕方無しに私も飛び込み、コロを抱えて汀まで泳ぎ戻った後、「危険な事は止めろ」と叱り付けた。元々垂れていた耳を更に垂らし、申し訳無さそうに見上げてくるコロは、しかし鴨だけは咥えたままだった。


 私は何故か、コロの情け無い様子を見ていると、無性に泣きたくなった。ずぶ濡れのまま、私はコロに抱き着いて泣いた。コロは子犬の時と変わらない「クン、クン」とか弱い声で鳴き、私の膝元に鴨を置いた。


 コロは、確かに鴨を持ち帰ったのだ。


 苦手な水面へ走り入り、私が撃った鴨を追ったのだ。


 血統などとは程遠いであろう両親から生まれ、幾人を経て私の元へやって来た雑種犬コロは、私の足りない部分を補う為に現れた……と考えるのは、余りに人間らしく、余りに烏滸がましい――。




「あら、面白いわよねぇそれ」


「うぉわぁ!? 宇良川先輩じゃないですか!」


 飛び跳ねんばかりに肩を震わせたトセは、ヒラヒラと眼前で手を振る宇良川に「どうぞどうぞ」と着席を促した。


「まだ姐さんと……は来ていないのねぇ」


 近江君、と宇良川が言った瞬間の「僅かな気流」を、トセは敏感に感じ取った。何かしらの遠慮を臭わせる宇良川の声、間、目線……それらは普段と違うを大いに語った。




 宇良川先輩、リュウ君の事……




「それにしても、この店……穴場じゃない? 学校帰りに行きたくなるような感じよねぇ」


「ですよねですよね! しかもとっても美味しいらしいし……ほら、飲み放題だって安いんですよ?」


 宇良川はメニューを開き、「あらぁ、良いわねぇこれ!」と目を輝かせた。


 場の空気を悟り、決して波風を立てないように立ち振る舞う――トセは宇良川と付き合いを深める内に、彼女の持つ「能力」を羨んだ。


 一見は暴君じみた振る舞いを見せる宇良川が、その実、を越えぬよう越えぬよう……と、精神的疲弊も厭わずに立ち回るというギャップに魅力を感じ、また――。


 息苦しさを勝手に覚え、トセは宇良川の社交術に首を傾げる事もあった。


 これは《姫天狗友の会》に所属する目代とは対極にあり、目代は「自身を傷付けられぬよう、一歩退いた位置から周囲を観察する」性質があった。宇良川のそれを社交術と呼ぶならば、目代のそれは「防衛術」であった。


 触れられたくない何かを護る為、自ら他人との間に一線を引き、眠たげな目と色濃い隈、無口という要素の鎧を纏う……そんな彼女の生き方が、トセは妙に腹立たしかった。


 もっと自分を出せば良いのに――助言したくなる気持ちを抑え、悶々とした日々を過ごす彼女には構わず、目代は龍一郎との間に「楽しげな不文律」を作り出したのだから更に面白くなかった。


 都合の良いところだけ自分を表現し、悪いところはひた隠しにする――卑怯じゃないか。「ありのままを見せよう」と鎧を脱いだ私が馬鹿みたいだ。


 トセは嘆き、蔑み、種々の懊悩を経て――「今まで通りの可愛い後輩」という仮面を獲得した。


 今日……トセは仮面の精度を試しに来たのである。そしてこの仮面は「平穏を求めて装着する」為に非ず――。


「お疲れ様です」


 来た、来たんだ! 背後からの声が聞こえた。龍一郎と、彼に付添うように目代が現れる。途端にトセの胸は高鳴った。


 気まずいから会いたくない……などと宣い、自分から距離を置く事こそが負けであるのだ――そう言わんばかりにトセは立ち上がり、目代へ挨拶を手早く済ませると……。


「遅いぞリュウ君!」


 、彼の肩を何度も叩いた。




 擬態――ある生物が何らかの理由を以て、別の生物や物体に姿を似せる事を指す。バッタ、コノハチョウ、ウサギの冬毛など、彼らは工夫と途轍も無い時間を掛けて体色を変え、あるいは形すら変形させ、捕食者から逃げ延びる為に進化を続けて来た。


 しかしながら、擬態は弱者の特権では無い。無慈悲な事に……捕食者達もまた、擬態を凝らして「餌」を欺き、食い殺すのである。ハナカマキリ、トラ、アンコウ、カメレオンと、枚挙に暇がない。


 何故、彼らは擬態という手段を用いたのか?


 理由は明白、「生きる為」だ。


 弱者は完璧な迷彩を自らに施し、捕食者を欺して飢えに追い込む。反対に捕食者は愚かな弱者を意識外から襲撃し、餌である自覚を死によって知らしめる。


 擬態とは、間接的な殺し合いに近しい。


 さて――恋に破れたはずの一重トセは、果たして弱者か、あるいは捕食者か?


 一つだけ……ハッキリしている事と言えば、今、彼女は酷く――。


 龍一郎からの愛に飢えている。それだけだった。

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