第2話:ロングスカートを靡かせて
「早く着き過ぎたな……」
次第に紺色を帯びてくる空の下、手持ち無沙汰に辺りを見回す龍一郎は、何気無くスマートフォンを取り出し、録り溜めた写真フォルダを開いた。
家族旅行で行き着いた湖、ふざけた表情の楢舘や羽関、これから夕餉を共にする《姫天狗友の会》一同、そして――。
気恥ずかしそうに笑う彼の恋人……左山梨子の写真が並んでいた。左手にアイスクリームを、右手にはスプーンを持ち、「さて食べよう」と意気込んだ頃の一枚であった。
交際を始めて一ヶ月未満であったが、一つ年上の彼女は、やはりお姉さん然とした振る舞いをデートの中で見せてくれた。しかしながら、ふとした拍子に――例えば写真のように――実に幼く思える事もあった。それでも梨子は年齢という垣根を越え、興味深いものを発見した時は、まるで幼馴染みのように彼を呼び、愉しい時間を共有しようとねだった。
姉、妹、幼馴染み……時と場合によって様々に「年齢」を変える梨子に、龍一郎はある種の奥深さと敬意を以て、一層惹かれていくのだった。
一人の女性が放つ引力、その問答無用さに彼は憶えがあった。
《姫天狗友の会》メンバー、彼と同じく一年生の《代打ち》、一重トセもまた……つい最近まで彼を自身の方へ、強烈な引力を以て引っ張っていた。龍一郎も抵抗する事無く、ゆっくりゆっくりと大きな
果たして――更に巨大な天体が出現し、少年を破壊的引力によって我が物とした。
同じ組織の一員であり、同じ年齢、同じ《代打ち》を務め、同じく「柳の光札」が好きで、明らかに互いを好き合っていたトセを斬り捨てても良い程――左山梨子という女は、龍一郎を「満たしてくれる」存在であった。
写真の中で笑う恋人を見つめ、少年の心臓はトクトクと高鳴る。
俺は……明後日、梨子さんの家に行くんだ……。しかも、一日……両親がいないらしい。いや、待て! 早まってはいけない、駄目だぞ近江龍一郎!
お前は何と嫌らしい男なのだ、何と下卑た生物なのだ! あの人は「俺なら」と信じて、穢れを知らぬ聖域に俺を入れてくれるんだ。落ち着け、落ち着け……!
しかし…………。
いつの日か、楢舘が言っていたじゃないか。「据え膳食わぬは男の恥」と……だったら、俺は――。
「クソッ! 楢舘の野郎! 余計な事を言いやがって! 俺はお前と違う、違うんだよ!」
一人地団駄を踏み、龍一郎は楢舘に手早くメッセージを送った。
『欲の権化め。俺が成敗してくれる。覚悟しろ』
脈絡も何も無い状態で……いきなり果たし状じみた文面が届けば、楢舘でなくとも大いに焦り、「俺は何かしたか」と質問してくるだろう。当然、三分後に楢舘から電話が掛かり、龍一郎は「もしもし!」と勢い良く応答した。
『どうしたどうした一体! この前に教えたサイトじゃ駄目か!?』
「やかましい! そんなもん必要無いんだよ、大体な、殆どが有料じゃねぇか、使えないんだよ! そんな事じゃない……お前は俺に余計な事を吹き込みやがって、お陰で頭が爆発しそうだ!」
すまん、全く理解出来ない……楢舘が弱々しい声で返した。
『……左山さんと喧嘩でもしたのか?』
「していない、仲良しだよ凄く!」
『じゃあ何でそんなにいきり立つんだ』
「据え膳食わぬは男の恥、ってこの前言っていただろうが」
言ったなぁそういや――楢舘は素っ頓狂な声で答えた。
「この言葉が……俺を酷く苦しめるんだよ。だから八つ当たりとしてお前を成敗する、それだけだ」
『いやいやいや……おかしいだろうお前。第一、据え膳ってのはな……』
女から誘って来る事を指すんだぞ?
彼の言葉に――龍一郎の目からは鱗が何枚も飛び出し、「あぁ、そういう事なんだぁ」と手を打ちたくなった。同時に羞恥心が沸き起こり、それを振り切るべく……。
「……り、梨子さんはそんな女じゃない! 貞淑な方なんだぞ!」
恋人への擁護を始めたのだった。
『知らねぇよそんなの……何だよ、家にでも誘われたのか?』
「えっ? あ、あぁ……いや、まぁ……」
数秒の間が空いた。楢舘は「ほぉ……」と蘊蓄を語り出す前のバリスタじみた声で、ウフフと笑い始めた。
「気持ち悪いなお前」
『ちなみに、その日……左山家に誰がいるのかな?』
「彼女だけだ」
『おっほぉ……いやいやなるほどなるほど……。これはなぁ、龍一郎。漫画で一〇〇〇回くらい見た展開だぞ? 親がいないからと家に誘って来る彼女……これを据え膳と呼ばなくて何と呼ぶんだ?』
その減らず口、縫い合わせてやる――と言い掛けた龍一郎は、「いや、待て」と自身の口を噤んだ。
仮に……梨子が本当に「据え膳」と化していたら、俺はどう対応すれば良いのだろう――龍一郎の頭脳は高速で回転する、回転するだけだった。求めた答えが出て来るはずも無い、何故なら彼は「少年」だったからだ。
『まぁ、いきなり完走するのは難易度が高いだろうが……せいぜい、キスぐらいは――』
「き、キスなんてお前……! まだ早いんじゃないか!? 俺……上手く出来ないぞ……!」
『ノリだよ、ノリ。知らないけど。俺は漫画なり映画なりで事前学習はバッチリだからな、いつでも来いという訳だ』
ひたすらサンドバッグを叩き、「実戦でも勝てる」と胸を張る格闘技マニアと似た発言の楢舘。彼は数日前、繁華街で初めてのナンパを行い、嫌がる女を追い続けた結果、彼氏が現れて怒鳴り付けられるという貴重な経験をしていた。
『とにかく、家に誘うって事は多少なりとも期待している、って事であろうよ龍一郎君。私はね、後は駆け引き次第だと思うんだがね? 勿論、相手を傷付けるのは御法度だよ君ぃ?』
「彼女いないってのに……先生のようだなお前……! 腹立つが参考になる……」
その後……龍一郎は楢舘に宣戦布告を詫び、成果は後日キチンと教える事で赦しを得た。
「じゃあまたな、宿題ちゃんとやれよ」
スマートフォンをポケットに滑り込ませる龍一郎。その目は期待に満ちていた。
誰しも、一つは特技を持っているものである。龍一郎なら賀留多闘技、楢舘なら練り込まれた恋愛論(机上)であろう。龍一郎は友人の意外な特技(実戦未経験)に感服しつつ、首をゆっくり回した時――。
トントン……と、控え目に肩を何者かに叩かれた。
「うぉぅわぁ!?」
俄に振り返る少年は、生温かい目で微笑み掛けてくる人物を認め……。
眼球が裏返るような恥ずかしさに悶えた。
「め、目代……さん……どうも」
「『随分早く来たんだね?』……いや、目代さんこそ早いですよ。まだ一時間以上もあるのに……俺は暇だったんです」
ふぅーん……とでも言いたげな目代は、またしてもメモに何かを書き記し、それを龍一郎に見せ付けた。
キスは誰とするのかな?
微動だにしない龍一郎。しかし――彼の反応などどうでも良いらしく、目代は近くにカフェを見付け、「詳しく教えろ」とその方を指差した……。
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