左山梨子、憂う

第1話:私の手を

 八月二〇日。土曜日。その日はよく晴れていた。見上げれば何処までも落ちるような青空の上を、羊に似た綿雲が転々として寝転んでいる。快晴だった。


 梨子は龍一郎と共に……自宅近くの公園へ来ていた。大きな人口池に入って遊べる為、休日は家族連れで大いに賑わう。この日も例に漏れず子供達の声が響き、二人が腰を下ろすベンチの傍を、ずぶ濡れになった幼児が駆け抜けて行った。


「……そう、に話したんだね」


 はい――龍一郎は沈痛な面持ちで答えた。「はい」の二文字を口にするだけで、強い虚脱感に襲われているらしい。


「自分から?」


「いいえ……電話で訊かれました。それに俺が答えて……」


「不思議と、あっちは明るい様子だった……と?」


 俄に顔を上げた龍一郎。「よく分かりましたね」と感心するように言った。


「何となくね。……でも、にとっては良かったんじゃないかな。そこで泣かれたり、怒られたりしても……対応に困っちゃうだろうし」


「恥ずかしい事ですが、『助かった』と最初に思いまして……それから、何だか胸が支えるような……」


 二人の頭上をシャボン玉が飛んで行った。近くで親子が次々と吹いているらしい。一匹の蝶が困惑したように、滅茶苦茶に羽ばたいている。


「分かって欲しいんですが」と龍一郎が慌てたように言った。


「上手く言えませんが……その、おトセにという訳では無くて……すいません、本当にそういう訳じゃないんです!」


 梨子はクスクスと笑い、彼の肩を軽く叩いた。


「浮気したら怖いよ? 私、怒った事無いから加減が出来ないかもねぇ」


 冗談のつもりだった梨子だが……思いの外龍一郎が消沈してしまった為、「分かっているよ」と微笑んだ。


「龍一郎は不器用なだけ。しかも初めての事ばかりだし……私も人の事言えないけどね。でも良いじゃない、そうやって真摯に考えて、真剣に思い遣っていて……」


 でも、と龍一郎は顔を背けて返した。梨子の笑顔に負い目を感じているようだった。


「俺とおトセは……確かに好き合っていました。今は違うにしろ、梨子さんは、その……嫌だと思うんです。アイツの事で悩んで、恋人である梨子さんにこんな相談までして……」


 座ったまま膝同士を付け、その下をハの字に開いて梨子が「楽しくは無いかな」と正直に答えた。


「でもさ、龍一郎がずっと抱え込んだままだと、お互い不幸になると思うの。先延ばし、先延ばしってなると……抱かなくていい不安まで生まれるよ?」


 実際に――梨子の声が少しだけ暗くなった。


を裂いたのは……私だから」


「止めて下さい! 梨子さんは悪くありませんから、俺が――」


「ううん、悪いんだよ私。だって……傍から見れば、私は龍一郎を横取りしたようなものだから。それは変えようの無い事実だし」


 だから、私ね……梨子は空を見上げ、真上に浮かぶ雲を見つめた。


「罪悪感とか、そういうのを無視する事にしたの。いつまでも悩んでいたりしたら、龍一郎にも、にも申し訳無いから。私は貴方が好き、好きで仕方無かった。他人の事なんて気にしないで、なりふり構わず自分の為だけに動いたのは初めてなの。ねぇ――」


 龍一郎も、きっとそうでしょう? 梨子は問い掛け、俄に高鳴る鼓動に眉をひそめた。


 高空を飛行機が過ぎて行く。遠くに聞こえる轟音は、しかし子供達の笑い声が掻き消してしまった。


「梨子さん」


「うん?」


 困惑するように龍一郎が問うた。


「俺も、梨子さんとでは駄目なんでしょうか」


には、駄目かもね」


「じゃあ、俺達は駄目同士、って事ですかね」


「そうだね。嫌だ?」


 ゆっくりと龍一郎がかぶりを振る。


「梨子さんと同じなら、構いません」


 梨子の頬がホンノリと赤らむ。日差しによるものでは無かった。


「……映画だったら、ここで龍一郎に抱き着くのかな」


 えっ……少年の初心な驚嘆が聞こえた。すぐに周囲を見渡す彼は、「人目がありますよ……」と真っ赤な顔で囁いた。


「た、例えだから! 私も恥ずかしいし……でも――」


 だったら、何とか大丈夫。


 角張った龍一郎の手の甲へ、ソッと――梨子が触れた。想い人の燃えるような体温、ほんの少し掻いた汗、柔らかくもあり硬くもある触覚が、電撃のように全身を駆け巡る。


 相手に触れる。原始的だが、一番効果的なだった。


「ねぇ、私……今ね? 凄く……貴方と手を繋ぎたい」




「一五時五分発、かぁ……」


 梨子が時刻表とスマートフォンを見比べたのは、これで五度目だった。賑わう公園を後にした二人はその足で最寄りの駅に向かい、刻一刻と近付く別れを惜しんでいた。


「今日は本当にありがとうございます、昼過ぎまで一緒にいたい、なんて我が儘を叶えて貰って……」


 私も会いたかったから良いよ……梨子は照れながら笑った。


 この日、龍一郎は《姫天狗友の会》メンバーと落ち合い、夏期休業期間最後の食事会をする予定であった。当然――トセも参加する事になっていたが、梨子は止めもせず「気にせず行きなさい」と快諾した。


「そういえば、宇良川さんや斗路さんと連絡取り合っているんですか?」


 現時刻は一四時五〇分。まだ時間の余裕はあった。


「うん、宇良川さんとは放映中のドラマとか話したり、かな? 斗路さんとは小説について話すよ。詳しいんだよ、あの人。特に恋愛系のやつね」


「恋愛系? 意外な感じだな。ミステリーとか好きそうなイメージがあります」


「そうそう、私も最初そう訊いたんだけど、それは宇良川さんの方だって。だから小説の相性は合わないんですーって言っていたもん」


 へぇ、と龍一郎は興味深そうに頷いた。梨子自身も抱いていた宇良川と斗路のイメージと実際とを比べ、幾度も「へぇ」と驚いた事が多々ある。例を挙げると、宇良川は編み物が趣味であったり、斗路は《金花会》以外の場では非常にフランクであったりとだ。


 取り留めない会話を楽しむ梨子達の耳に、「間も無く、三番線に――」と、プラットホームに集合を促すアナウンスが聞こえた。


 もう、お別れなんだ……梨子は項垂れたくなる気持ちを抑え、「そろそろだね」と改札口の方を見やった。


「梨子さん、夏休み……もう終わりますけど、また……近い内に会えますか?」


 子供のように弱々しい表情で、龍一郎は申し訳無さそうに尋ねた。


 決して言葉には出さぬよう……しかし抑え込めない何かを抱いている、そんな相貌だった。


 梨子は「元気無い顔は駄目だよ」と、彼の頬を軽く抓った。


「これからご飯食べに行くんでしょ? 楽しそうにしないと皆心配するよ」


「そうですけど……」


 改札口へ近付く二人。龍一郎の足取りはドンドンと重たげになる。今生の別れ、とでも言わんばかりに悲痛な表情を浮かべる彼に……梨子は二度言い掛けては止め、三度目で――。


「あ、あの……ね?」


 視界がチラつくような緊張、恐ろしい程の高揚感が梨子を襲った。


「明後日、なんだけど……」




 一五時七分となった。


 梨子は早足で駅の外へ出ると、龍一郎を乗せてゆっくりと加速する列車を、すぐ近くの踏切で待ち受けた。カンカンと鳴動する踏切の傍で……梨子は火照る頬に夕風を当てながら、遠慮がちに右手を振った。


 一両目、二両目が通り過ぎる。三両目が差し掛かった、龍一郎らしき少年が照れ臭そうに手を振り返してきた。列車は加速を続け、二人の距離を無慈悲に開いてしまう。


 やがて遮断機がフラフラと上がった。同時に通行人、自動車がヨロヨロと動き出す。梨子も倣って歩を進めた。それからすぐにスマートフォンが鳴った。新着のメッセージが届いたらしかった。


「……あれ。どうしたのかな?」


 送り主は龍一郎である。送られて来た文章に目をやると……。


 梨子の顔は、羞恥と喜びに満ちたものとなった。


『さっき、隣の人に笑われました……。明後日、物凄く緊張しますけど、全力でにお邪魔しますね!』

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