第5話:芽吹くは怪物、断つは仇敵

「あら、京香ちゃん家に行くのは止めたの?」


「うん、ちょっとね。何だか疲れたから、今日はもう寝るね」


 スタスタと階段を上って行く娘を一瞥した母親は、しばらくの間俯き、何事も無かったかのように缶ビールを傾けた。




 私室のドアを開いたトセは、照明も点けずにスマートフォンを枕元に投げ、自らも布団の上に飛び乗った。ゴロリと仰向けになり、薄暗い天井を見つめる。


 パン、とロケット花火の爆ぜる音が聞こえた。


 それを契機とし、トセはゆっくりと起き上がり……膝を抱えた。膝小僧を眺めるのに飽いた彼女は、「で打つ技法は何が良いか」と思案に耽ったが、それもすぐに止めた。馬鹿らしかった。


 虚ろな双眼は室内を泳ぎ、棚に置かれた《小松札》を認めた。初めて《靖江天狗堂》に龍一郎と出向いた際、「私が一番好きな地方札だ」と紹介したものである。


 どうせ――トセは笑った。


 どうせ、そんな事は忘れているんだろうな。


 仕方無い事……再び寝転んだトセは思う。


 数ヶ月も前の、それも異性の好きな札の情報よりは、現に交際している「左山梨子」の趣味や興味の対象を憶えた方が得策である。トセは理解していた、理解していたからこそ、自身の遠慮が腹立たしい。




 ねぇ、リュウ君! そんなの酷いよ! 私達、付き合う寸前だったのに、何でそんな人と付き合っちゃうの!? 私なんてどうでも良いって事なんだよね!?




 電話越しに強く訴えてやろうかとも考えたが、しかしながら……ほんの少しだけ残った「理性」が、辛うじて彼女の憤激を抑え込んだ。


 そして今、「理性」は想い人の目が行き届かぬ場所にて――価値を失った。


「…………はぁ」


 溜息を吐いたトセ。


 大きな呼吸と同時に……瞼、鼻の奥、頬、胸に焼け付くような熱を覚えた。


 ポタポタと音が鳴った。


 頬を伝う「敗北感」が、枕に湿り気を与える音だった。それは止むどころか勢いを増し、フゥ、フゥと息を吐く度に涙道から噴き出してくる。


 暗い天井が揺らいだ。強く目を閉じると、止まり木を蹴飛ばされた小鳥のように……涙が一気に零れ落ちた。


「……ふっ、う……うぅ……」


 歯を食い縛り、声を出さぬよう出さぬようと抵抗するトセ。両目を腕で力一杯に押さえ、止めてやると抗う彼女の口元は――。


 歪むように、微笑んでいた。




 面白い、面白いなぁ私。何をペラペラと、嘘ばかり吐いているんだろう。


 打ちたい訳無いじゃん。好きな人を盗った女と、仲良く賀留多なんて出来る訳無いじゃん!


 上手く出来ているなぁ、人生って。


 良い事があれば、ちゃーんと悪い事も起きるんだから。


 あぁ、もう何だか――キツいや。




 涙を流したまま、勢い良く起き上がったトセ。潤む視界は写真立てに向かい、その中で笑う《姫天狗友の会》メンバーを睨め付けた。




 馬鹿みたいだなぁ私、楽しそうに笑っているよ。何も知らない癖に、残酷な結末を迎える事も知らないで、隣のリュウ君に寄り掛かっている。




 教えてあげるよ、一重トセ――乱暴に写真を引き抜き、トセは力任せに破り捨てようと指を掛けたが……。


「ひっ……ひっ……うぅ……りゅ、リュウ君……」


 楽しそうに微笑む龍一郎の、誰よりも大好きなその顔を引き裂く事が、どうしてもトセには出来なかった。




 ……目代さんも宇良川さんも、楢舘だって羽関だっておトセの代わりは出来ない。の存在なんだよ、お前は。何度も言うが、お前は賀留多の楽しみを俺に教えてくれた。色々あったけど、それでも今となっちゃ良い思い出だ。それを否定しようっていうのか――。




 賀留多文化存続を懸けた決戦前夜、龍一郎が語った言葉を……俄にトセは思い出す。同時に、彼の体温や表情、呼吸の音に至るまでが蘇り、すぐ隣に彼が立っているような錯覚に陥った。


 トセは喜び、しかし即座に嘆いた。


 隣に立つのは幻想である。幻想に幾ら現実感を与えようとも、今も何処かで他の女と愛し合っている「本物」に勝る訳が無い。


 しかしながら――確かに、初めて龍一郎に賀留多の魅力を教えたのは、紛れも無くという少女であった。


 無邪気に笑い合う「写真」を引き裂く行為は、そのまま龍一郎との思い出を否定するだけではなく、として扱うのに等しい。


 それだけは出来なかった。


 それだけはしたくなかった。


「あぁ……あぁぁ……リュウ君、どうしてかなぁ。どうして私じゃ駄目なのかなぁ……」


 零れ続ける涙は写真に着地する。熱い水滴は恋情の籠もった溶岩の如く、一葉のを灼いてしまうようだった。


 トセは泣き止みたかった。


 泣き続けるという行為によって事態が好転する事は無く、むしろ「現実を受け入れる」段階を後回しにするだけだった。




 もう泣くな、泣いちゃ駄目だ私。これ以上泣いても、良い事なんて何も無いのに。泣かないで私。もう止めて、誰か私を助けて。




 頭は落涙を中止したくとも、感情が涙腺を刺激してしまう。


 嘆き悲しむトセは、次第に……。


 小さく芽吹いたの感情に支配されていく。更に感情は変質を続け、その全身に棘を生やし、毒性の粘液を纏い始め、殺気を込めた蒸気を噴き出す。


 生まれ、成長を止めない怪物を心奥に宿したトセは、窓を開け放ち、空を見やった。


 土の濡れるような匂いがした。方角は分からない、しかしながら、確かに――遠雷が聞こえた。




 凄く、憎い。リュウ君が? 違う。


 私は、誰を憎んでいるんだろう?


 憎む事で救われる訳が無い、それは分かっている。


 私は、誰を憎んでいるんだろう?


 へぇ、こういう事だったんだ。初めての感覚だ。


 って、こういう事なんだ。


 また一つ、勉強になった。


 人生は良い事と悪い事、その繰り返しなんだ……。


 カス札は充分に集まった。加算役は、ここぞという場面で輝くの。


 光札ばかりを引けたと思っている、を行く先輩へ。


 その札だけで、は完成しましたか?


 闘技とは、光札だけで行えるものでは無いんですよ?


 いつか、いつの日か機が熟したら。


 先輩、貴女にを教えてあげましょう。


 その日までは……。


 私は貴女の可愛い後輩、一重トセですからね。


 あぁ、楽しみ。


 それでは先輩、を、ほんの少しの間だけ、よろしくお願い致します――。




 雨の気配を感じ取ったトセは、大きく息を吸い込んでから……。


 ニッコリと、無理矢理に笑ってみた。


「なぁーんだ。笑えるじゃん、私」


 泣き腫らした目は前を見据える。


 見据えるその先の見当は付いていない。


 しかし――何処かで今も龍一郎と愛し合い、目を細めて幸福を味わう、憎きあの女に……。


 擬態の笑みを向ける為。

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