第4話:一三階段

「お母さん、ちょっと京香ちゃんの家に行ってくるね。お呼ばれしちゃったからさぁ」


「あら、こんな時間から? 全く……ご飯は残さないわよ、それと、泊まるんじゃないわよ、迷惑になるから……」


 キッチン奥で調理する母親の心配を適当に受け流し、トセは夜道へと飛び出した。


 彼女はを吐いていた。友人――京香に「遊びに来ないか」と誘われた事実は無い。唯、「散歩してくる」と正直に言えば良かったのに……何故嘘を吐いたのか、自分でも理解出来なかった。


 プンと匂う夏草に鼻を利かせながら、微かに蒸し暑さを覚えるコンクリートに触れた。奥に「熱」が残っているようだった。五メートル先に、交換の時期が迫ったらしい街灯が瞬いた。どうするべきかと困惑するように、明滅する光源の周囲を飛び交う羽虫がいた。


「んぅー……っと」


 まだ寝惚けている身体を起こすように、両手を夜空に向けて伸ばす。雲の一部が浅黄に染まっている、月はそこに鎮座しているらしい。


 スマートフォンを見やる、二〇時丁度であった。


「……その前に」


 目を突くような輝きのコンビニエンスストアへ入り、冷えた缶ジュースを一本買った。


 数ヶ月前、に過ぎない《高目》にて、手痛い敗北を喫した龍一郎に渡したものとであった。


 リュウ君、ションボリしていたなぁ……トセは彼の顔を思い浮かべ、一人微笑んだ。幾日も前の出来事が、つい昨日の事に思えたからだ。




 近江龍一郎という少年の顔が心にチラつくようになったのは、二人でジュースを飲みながら語ったからである。


 目に見えぬ、しかし確かに存在する打ち場の……その重要性を龍一郎に教えたのも彼女であった。落ち込みながらも、いつの日か「リベンジ」を狙っているような諦めの悪さ。彼の強さはそこにあるのだろうと、いつの日かトセは考え結論した。


 絶対に屈さぬ、絶対に負けぬ――という青臭い少年性を龍一郎に見出したトセは、「やはり彼を誘って良かった」と、《代打ち》になるよう提言したのを、誉れのように感じた事さえあった。


 彼はトセの期待に応え、応え、応え続けてくれた。それが彼から寄せられた愛情である事は、一種の勘で分かっていたし、トセ自身も「活躍」を求め続けた。


 格好良い、素敵な近江龍一郎君。私の為に活躍し、私の為に笑ってくれるリュウ君。


 トセは真剣に恋情を抱いたのが初めてだった事もあり、いつしか……感情の歯止めが利かなくなっていた。最初にそれが《姫天狗友の会》部室にて発露した際、目代と宇良川が迷惑そうな表情を浮かべなかった為、「これは良いんだ」と、龍一郎へのスキンシップ、更には束縛的言動も我慢しなくなってしまった。


 そして……最近、彼女はそれらの逸脱行為オーバーランを後悔していた。


 ある日、トセはクラスメイトが人目も憚らずに彼氏とじゃれ合う光景を見て、「恥ずかしくないのか、二人は」と眉をひそめた。その時、「自分達はどうだろう」と首を傾げたのである。


 付き合っていないとはいえ、自分達がであるとは周知の事実らしい(京香や宇良川がそう言って茶化した)。


 人の振り見て我が振り直せ。危ない危ない、私もクラスメイトと同じ人種になるとことだった……。


 トセは深く反省したが――歯止めの利かない感情から逃げ出すのは難しい。


 龍一郎が宇良川とボクシングの真似事をしていた時、間違って宇良川の胸へ触れた事があった。宇良川は「盛り過ぎよぉ」と笑い、龍一郎も顔を赤らめて謝罪したのを受け、トセは酷く


 龍一郎が時折、ココアを飲もうとする日がある。すると目代はメモ用紙で紙飛行機を折り、彼の背中へ向けて飛ばす。解体すると中には「いつものやつ!」と書かれており、これは二人にだけ通じる秘密の分量を指す。仲睦まじい様子が、トセには酷く


 感情を隠し切るのが苦手なトセは、耐え切れなくなり「用事がある」と嘯いて部室を抜け出す事が増えた。仏頂面で帰宅する彼女の元へ、龍一郎から「明日、一緒に買い物へ行こう」と誘いが来る、尚更面白くない。


 何より――誘いを受け、勝手に満面の笑みになる自分が嫌いだった。


 全く、憎い奴だ……龍一郎を思い、ドンドンとは強くなる。


 比例して、彼へのが強くなる。


 触れたい。リュウ君にもっと触りたい。触って欲しい、先輩方と絡まずに、私と、私と、私とだけ。お願い、私だけを……。


 嫉妬心は入道雲の如く膨れ上がり、しかし目代達にぶつける訳にもいかず、飲み込み誤魔化し耐え続けた。


 胸の奥からはち切れそうな欲に負け、トセはつい先日に「降伏宣言」をしようと決めた。


 貴方の事が好きで仕方ありません、負けました。私の彼氏になって下さい。


 勝算は充分にあった。


 はずだった。否、確かに「あった」のである。


《こいこい》で言えば師走戦、三〇文以上の差を付け、残り一枚で《三光》が出来るが、相手はせいぜいカス札数枚を取っただけ……所謂「楽な勝負」であった。


 そこに――予想外の展開が起こった。


 座布団を掴み、力任せに放り投げて「この闘技、無効」と吐き捨てられるような感覚であった。




 左山梨子。京香によれば――座布団を投げ捨てた張本人である。




 万が一……としたらだろうとトセは危惧していた。宇良川も気安くスキンシップを繰り返す性格であったが、何となく彼女の場合は冗談めかしたものが感じられた。


 しかしながら目代の場合、龍一郎への触れ方がのように思えた。理由は分からない、分からなかったがとにかく不快だった。


 闘技中、龍一郎が引きやすいように山札を動かすのが、また取り札を手渡す動作が――じみていた。更に……何かのを共有しているような、自分には無いもので通じ合っている気がした。


 一歩退いた場所から観察し、隙あらば忍び寄るようなその態度が……憎たらしかった。猪突猛進に物事を進めるトセには無い「強み」が、なおの事面白くない、癪に障り、腹立たしい。


 しかし、しかし!


 まさか、《代打ち》関連の女だとは!


 トセは昼寝をする前、布団の上で「《代打ち》に誘った事」を後悔していた。否、《姫天狗友の会》に誘った事すら失敗に思えた。


 でも……そうじゃないんだよね。


 トセは小石を蹴飛ばした。人工的な光の届かない暗がりに転がり込んだそれは、すっかり姿を消してしまった。


 龍一郎の魅力に気付けたのは《代打ち》《金花会》《姫天狗友の会》……三力あっての僥倖であり、購買部で《八八花》を渡しただけでは、「賀留多に不慣れな男の子」でしかない。


「……座ろう」


 広い公園がある。トセは補修の行き届かないベンチに腰を下ろした。遠くで家族が花火をしており、ネズミ花火に驚いた少年が足を縺れさせ、転び、泣いていた。


 彼の魅力に、――。


 缶ジュースを開け、一口飲んだ。「あの日」と味は変わらない。一人で飲もうが、二人で飲もうが……味は変わらなかった。


 ペチリと腕を叩く。蚊が辺りを飛んでいた。




 私がリュウ君を助けたのに。私がリュウ君に賀留多の魅力を教えたのに。私がリュウ君の事を……分かっているのに。




 缶ジュースを半分程飲み終えてから、トセはスマートフォンを取り出して電話を掛けた。


 呼び出し音が鳴る。二度目辺りから心臓がはち切れそうだった。トセも《代打ち》に何度も挑んだが、これ程までに緊張する事は無かった。


 いつも、いつも――に電話を掛ける時だけは、彼女の心臓は弱々しくなる。


 やがて……呼び出し音が止んだ。少しの間を置き、トセは緊張を押し殺して発声する。


「っ、もしもし、リュウ君?」


 トセは立ち上がり、公園の中を歩き始めた。

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