第3話:リコ、りこ、梨子
トセが電話越しに「その事」を聴いたのは、丁度一三時を過ぎた頃であった。薄雲が広がるこの日は妙に蒸し、一層彼女を焦燥と苛立ちの穴に叩き込んだのである。
「……アレじゃない? 京香ちゃんの見間違いなんじゃない?」
見間違いならどれ程良い事か――今では気の置けない友人、羽関京香の急いた声が聞こえた。
近江さんの事なんですが……。
通話が始まった瞬間、京香は申し訳無さそうにこう言った。
さて、彼について何かあっただろうか? トセは食べ掛けのアイスキャンディーを腹に収めて続きを促した。
まぁまぁ落ち着いて――そう促し、落ち着きの足りない京香の言葉を繋ぎ合わせていく毎に……次第にトセの眉間に皺が寄っていった。
京香曰く、二日前に大型書店を兄と歩いていると、旅行雑誌のコーナーで立ち読みする龍一郎を発見したという。兄妹は声を掛けようと歩み寄った時、俄に物陰から一人の女が現れ、龍一郎の肩を叩いた。
ごめんなさい、電車が遅れちゃった――歳の近いらしい女は頭を下げたが、龍一郎はかぶりを振って「俺もさっき着いたところです」と笑った。
二人はそのまま雑誌に目を通し始め……京香は決定的な台詞を、龍一郎の口から聴いたのであった。
初めての遠出ですから。しっかりと決めたいですね……。
女が嬉しそうに頷いた辺りで、兄が「これ以上は二人に失礼だ」と半ば無理矢理に京香の手を引き、兄妹は書店を後にした――という顛末である。
はずれ、と書かれた棒をゴミ箱に投げ入れたトセは、仰向けに敷き布団へ寝転び、「京香ちゃん」と問うた。
「その人、本当にリュウ君だった?」
京香が同意した。
「……相手って、どんな人? 花ヶ岡の人?」
やや間を置いてから、酷く怯えたような声で京香は答えた。
『……多分、花ヶ岡の生徒だと思います、《仙花祭》らしき話題も出ていましたし。近江さんは砕けているとはいえ、敬語を使っていました。年上かと……』
あっ――京香が加えた。
『近江さんが、会話の途中で名前を呼んでいたはずです。確か……』
リコさん、と……。
刹那――トセは目を見開き、ゆっくりと布団の上で正座した。同時に「リコさん」という単語に関わっているであろう記憶を、片っ端から検索した。
そうだ。私は「リコ」という単語に記憶がある。
リコ、リコ、リコ……。リュウ君に関わっている事柄と「リコ」は、恐らく同じ領域に存在する。
リコ、リコ、りこ……。結構前に憶えたはず。そう、リュウ君の口から、だったかな……いや、違う。彼に見せて貰ったんだっけ。何を? メール? いや…………手紙か。
りこ、りこ、りこ……。リュウ君に手紙を書いた「りこ」。手紙……あぁ、そうだ、リュウ君、最初の《代打ち》を終えた時、手紙を貰ったんだっけ。
りこ、り、こ……梨……子……。
梨子、梨子……梨子だ。
「京香ちゃん」
『は、はいっ?』
トセは――急に笑い声を上げ、「思い出したわぁ」と楽しげに続けた。
「そうだよ、梨子。左山梨子さんだよ! リュウ君に《代打ち》を依頼した、初めての人なんだよ!」
あぁー……と、小首を傾げているような声で京香が言った。
「えーっと……《花ヶ岡新報》に載っていた、戒告処分の人でしたよね?」
「そうそう! 《無尽講》紛いのトラブルに巻き込まれた先輩だよ。何だろう、京香ちゃん。ストーンと腑に落ちた感じ!」
困惑する京香に構わず……トセは「だってさぁ」と笑った。
「あるあるだよ? 相談事とか、そういうのでくっ付く男女って。何たって《札問い》だもんね、そりゃあそうか、そうだそうだ」
『でも……! そうだとしたらですよ、近江さんは、その……ハッキリ言いますが、思わせ振りが過ぎませんか!?』
「いやいや、そんなの無いって。だって私とリュウ君はね、賀留多文化存続の為に戦った戦友な訳。それ以上の繋がりは無いよ?」
京香が押し黙ってもなお……トセは歌うように続けた。
「男女の関係の週末は、必ずしも付き合うって訳じゃないのかもね。いや、きっとそうなんだよ。私が《八八花》を買うように勧めたのも、《金花会》へ誘ったのも、《代打ち》で悩んでいる時、一緒にいたのも……それは私だもん。それで充分さ」
そんなの違いますよ! 慌てたように京香が反論した。
『駄目ですよ一重さん! 私の目から見れば……近江さんと一番近しい、いいえ、一番お似合いなのは貴女だと思います! それに、一重さんも言っていたではありませんか! 彼の事が好きだ、こんなに誰かを好きになった事は無いって! 諦めるなんて……誤魔化すなんて、一重さんらしくありません!』
「良いのさ、京香ちゃん。私はリュウ君の理解者、それで良いんだ」
ブツリ、と通話を終了したトセ。何か京香が言っていた気もするが、しかし彼女はこれ以上「友人の節介」を聴きたくはなかった。
今は、今だけは――孤独な時間を過ごしたかった。
カーテンがフワリと動く。風が吹いた。湿気ったような匂いが感じられた。もうすぐ雨が降るらしかった。
壁に掛けたカレンダーを見やると、「始業式!」と自身の書いた文字を認めた。まだ二週間程、猶予があった。
「これだけあれば、大丈夫かな」
トセは呟き、スマートフォンを手に取った。三度、四度と画面に触れ……《姫天狗友の会》メンバーで撮影した写真を見つめた。夏期休業前、夜遅くまで部室にて《八八》を打った日のものだった。
龍一郎、その横にトセ。二人にのし掛かるように宇良川。困ったように笑う目代……。
皆が皆、心の底からその時間を楽しんでいるようだった。
「アラーム……設定しなきゃ」
一八時に目覚まし音が鳴り出すように設定し、トセはスマートフォンを枕元に放り投げ……。
それから彼女は、ゆっくり目を閉じた。
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