第8話:ビル群の中で

 容赦の無い日差しは高層ビルの窓に照り付け、ギラギラと白光を反射させている。時刻は一三時を少し過ぎたが、街を行く人々の数は更に増していくばかりだった。


 相変わらずの陽光に……梨子はハンカチで額を吹きながら、隣を歩く少年――近江龍一郎の様子を見やった。


 つい五分程前に、二人はケーキバイキングの会場を後にして再びうだるような暑さの中に舞い戻ったのだが……。龍一郎の様子がバイキングの前後で大きく違っていた。


「どうしましたか、近江君……お腹でも痛いの? ごめんね、食べさせ過ぎちゃったかな……」


「い、いえ! 全く問題ありません、何度も言いますけど、凄く美味しかったです。ご馳走様です! 早く場所を見付けないとですね」


 近くにあるかなぁ……龍一郎は笑みを浮かべて辺りを見回す。梨子は「賀留多の打てる場所」を三件、事前に調査済みであった。その内一軒は現在位置からおおよそ三〇〇メートル先にあり、龍一郎が自力で「良い場所」を発見出来ない場合、梨子は誘導しようと考えていた。


 信号待ちの間、梨子は隣の龍一郎と視線が合った。すかさずニコリと微笑むも、しかし少年は気付かない振り……のつもりか、首を捻って溜息を吐いた。




 左山さんの考え方。俺と一緒です。




 ピザを二切れ食べた後、龍一郎が気恥ずかしそうに呟いた言葉である。この発言を境に……彼は何処かよそよそしい態度(あるいはソワソワ、と表現出来るかもしれない)を取り始め、時折梨子を横目で見やった。


 少年の中で、左山梨子という人間が「知り合いの上級生」から――「魅力的なお姉さん」へと変質した為、そう断言したい梨子は、しかしながら欲望を堪え、あくまでを演じる事とした。


 理由は二つ。「へぇ、そうだったんだ」と意外さに小躍りしたい我が儘と……例え全てが勘違いであっても「私が馬鹿だったんだ」と落涙しない為の予防である。


「場所さえあれば……《八八花》は持って来ているし……あっ!」


「うん?」


 途端に焦り出す龍一郎。続いて顔色が悪くなり、パタパタとポケットを叩いて「しまった」と呟いた。


「すいません、左山さん……その、俺……札を忘れて来ました」


《八八花》を持参するのは龍一郎の役目であった。最初は梨子がその役を買って出たが、「バイキングの無料券を提供するのは左山さんです、それぐらい俺が持って行きます!」と宣言した龍一郎を立てる為、果たして梨子は「それなら」と彼に任せたのだった。


「……本当に申し訳無いです、これじゃタダ飯を食いに来た奴……みたいになりますよね」


 彼の為なら幾らでも食事を摂らせたい梨子であったが、「大丈夫大丈夫」と彼の肩を叩いた。ピクリと龍一郎は微動した。


 風呂場で触る自分の肩に比べて、何と硬く、そして逞しい隆起だろう……笑う彼女の内心は、生々しい興奮が首をもたげていた。


「前にクラスで耳にしたんですけど、この先にお洒落な賀留多屋さんがあるらしいですよ? 丁度新しい《八八花》も欲しかったし、付き合ってくれる?」


「じゃ、じゃあ俺がそれを買います! いえ、買わせて下さい! せめてものお詫びです!」


「いいですよ、そんなの。お詫びをして欲しいだなんて思っていませんから」


「俺の気持ちが収まらないんですよ――」


 などと言い合う内に……目当ての賀留多屋は向かいの道路まで迫っていた。




 菱屋莱狐堂ひしのやらいこどう。ビル群の中に建つ賀留多屋の名称である。花ヶ岡高校の近くにある靖江天狗堂と比べ……余りに近代的であった。


 店舗は三階建て。通りに面した部分は全てガラス張りとなっており、最上階は敷居の高そうなコーヒーショップが見受けられた。


「味も居心地も一級品」とポスターが貼られており、純粋にコーヒーだけでも出来そうだ、と梨子は店舗を見上げた。スマートフォンで下調べはして来た梨子だが、「百聞は一見に如かず」……という言葉がふと脳裏を過った。


「……靖江天狗堂とは違った凄さがあるなぁ」


 三階でコーヒーを優雅に嗜み、何か談笑する女性客を見つめる龍一郎は、ボソリと呟いた。


 気後れしつつも、だが札が無ければ闘技は行えない為、梨子は龍一郎と自動ドアを通過する。白檀の香りと制服に身を包んだ店員が、不安げな二人を温かく迎えてくれた。

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