第7話:未経験者

「ち、違います――」


「そう? どうも他のお客さんが気になるようでしたけど……」


 まぁ、確かに……梨子はアイスコーヒーを飲みながら言った。


も、来ているかもしれませんね」


 近江君――柔和な笑みを止め、非難するような目で少年を見つめる梨子。その実、彼女は「思惑」があるとしても、龍一郎を睨め付けるのは辛かった。


「嘘は嫌いです。この状況を見て欲しくない人がいる……そうでしょう? この前彼女はいないって電話で教えてくれたけど、はいるんじゃない?」


 依然として、会場には喧噪が溢れかえっている。喫茶店よりも、こういった場所の方が密談には良いかも――梨子はふと思った。


「近江君の力になれるかもしれない、ねぇ……だから本当の事を教えて?」


 目を細め、年下の龍一郎を包み込むような微笑みで……梨子は問い掛けた。「私は貴方を弟のように思っているんですよ」と嘯くように。


 やがて――龍一郎は「罠」に絡め取られ、訥々と真実を語り始めた。




 電話で龍一郎が語ったように、彼に恋人はいなかった。だが……相思相愛に近い状態の女子生徒がいた。名を一重ひとえトセといった。


 ご存知かと思います、一重トセの事は……同じ代打ちですから。そう語る龍一郎の目は暗かった。


 龍一郎は夏期休業期間が始まる前に、この女子と小旅行に向かう約束をしていた。列車を何本か乗り継ぎ、日帰りで済ませられる程度のものだが、二人は何度も旅行雑誌を開いては、まだ見ぬ景勝地に思いを馳せた。


 同時に、龍一郎は自身の所属する《姫天狗友の会》という、一年から三年までの代打ちが所属する会内でも、気軽に出掛けたり賀留多を打ち、交流を更に深めたいと考えていた。


 でも、宇良川さんや目代さんは……何だか俺達の事を気遣っているようで、それが歯痒いんです――溜息を吐く龍一郎。


 しかし龍一郎は「致し方無し」と考えていた。会員である一重トセに恋情を抱いたのは真実だし、恐らくは彼女も自分を好いている事を察していた。


 想い人である一重トセに――龍一郎が眉をひそめる事が増えたのは、ごく最近からである。


 夏期休業期間中、《姫天狗友の会》は時折集まっては、高校近くの賀留多屋である靖江天狗堂にて、賀留多闘技を楽しんでいた。龍一郎は席順など気にした事も無かったが、一重トセが彼の隣に座れなかった場合……妙にその日の機嫌が悪い事に気付いた。


 宇良川、目代もそれを悟ったらしく、自然と龍一郎の隣には座らなくなった。果たして余った彼の隣には、一重トセが着席し、その日の闘技が始まるのだ。


 半ば接待のような交流も、しかし大人びた宇良川と目代の気遣いもあり、平穏無事に続いていたが……。


 ある龍一郎の一言で、「事件」は起こったのである。


 その日は四人で喫茶店に出向き、で紅茶を楽しんでいた。話題は三年生である目代の進学先、迫る学校祭、賀留多と移り変わっていく。途中、目代がマガジンラックに置いてあった旅行雑誌を認め、三人にある景勝地のページを開いて見せた。


 それは一重トセが「一緒に行こうね」と言っていた岬である。目代は「一度見てみたい」とメモに書いたところ(彼女はを無くさないよう、筆談で会話をするのが主だった)、龍一郎は「そこですか」と返した。


 今度、皆で行ってみましょうか――俺はそう言ったんです。他意も何も無い、唯四人で思い出を作ろうって……考えただけなんです。龍一郎は訴えた。


 彼の提案に宇良川と目代は「良い考えだ」と笑い、または首肯したが……一重トセだけは、苦笑いを浮かべるだけだった。「楽しそう」と返事はするものの、心底思っているとは考えにくい声質で。


 彼女の変容に気付いたのは……龍一郎だけではなかった。


 やがて一重トセに電話が掛かる、「親戚が来たようなので、先に帰ります」と彼女は言い残し、一礼しながらその場を去った。


 龍一郎はすぐに上級生達へ謝った。自分達のあやふやな関係で迷惑を掛けてしまった、と。無論、宇良川と目代は「気にしないで」と彼を宥めるも、多少の気疲れが目立つようだった。


 ……宇良川は困ったように笑った。目代も小首を傾げ、紅茶を啜ったのが――龍一郎には耐えられなかった。


 俺はアイツの事が好きでした、でも……今はどうなのか、自分でも分からないんです。「嫉妬」、っていうものなんでしょうが……宇良川さんや目代さんに特別な感情を持った事は無いし、唯四人で出掛けたいって思っただけなんです。それなのに……おトセは……。




「すいません、こんな話をしちゃって……俺が悪いんです、気持ちがハッキリしていないのに、こうやって左山さんと出掛けて、迷惑掛けて……」


 すっかり意気消沈した龍一郎は、背中を丸めて梨子よりも小さくなるようだった。


 梨子はしばらく口を噤んでいたが、やがてピザを一切れ、龍一郎の取り皿に載せた。「顔を上げて」と彼女は笑った。


「話してくれてありがとう、近江君。まずは……ほら、食べて食べて。食べないと、元気が出ないから」


 はぁ……と龍一郎はピザを齧る。梨子は続けた。


「私としては、一重さんの気持ちも分かります。きっと、近江君と出掛けるのを凄く楽しみにしていたんだと思いますよ。しかも恋仲になる寸前なら、尚更かも」


「……そうですよね、やっぱり俺が――」


 でも、と梨子はショートケーキを口に運んだ。甘酸っぱい風味が口内に広がった。


「ごめんなさい、一重さんの事を悪く言うつもりは無いけれど……あくまでです。私は、私はですよ? 私が思うに……」


 落ち込む少年を宥めるように、抱き留めるように梨子は言った。


「近江君は、何も悪くない」


 だって……梨子は柔らかな声で続ける。


「仮に、私が一重さんだとしたら。特別誰かを責めたりはしませんね。皆と行った時、二人だけで行った時を比べられるでしょう。初めてか、というよりは『どんな思いでそこに行ったか』が大事です。それと……再確認出来ます、どれだけ――」


 好きな人と二人きりの時間が尊いのか……って。


 龍一郎は真剣な目で梨子を見つめている。まるで「闘技中」の如き鋭さで。


「……恥ずかしながら、私、今まで付き合った人はいません。でも、私が一番重要視するところはですね。皆と一緒、二人きり……好きな人の色んな顔が見られるなんて、素敵だと思います。そんなのを見てしまったら、私……」


 もっともっと、その人を好きになるでしょう――夢見がちですね、と梨子は照れながら笑い、ガトーショコラを口にした。

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