第2話:こぎつね座
《……左山さん? どうしました? 左山さん?》
その時、左山梨子の双眼は限界まで見開かれていた。
何でも無いです――龍一郎に返す彼女の肺は、興奮と驚喜が引き起こす息切れに対応すべく、何とか外界から空気を取り込もうと躍起になっていた。
続いて……目を閉じた梨子は、赤や緑、青や黄色の閃光が瞬く幻覚に悩まされる。瞳を閉じてなお彼女を惑わすそれは、同時に「あの少女」と文数差が無い事を示す吉兆であった。
あの子で悩む必要は無いんだ。これで私と彼女は平手……近江君にとって私達は、「恋人では無い唯の女子」なんだ!
止め処無い喜の感情が、梨子の口角を無理矢理に持ち上げる。笑いが止まらない……今の自分を現すなら、この言葉しかないと彼女は思った。
嬉しい、本当に嬉しい。何て収穫を得られたのだろう、私は今日、世界で一番幸福な人間だ――梨子は火照る身体を冷ますように、窓を開け放った。
「近江君、見て下さい」
《何をですか?》
「星。夜空を見上げて下さい」
龍一郎は困惑するように「分かりました」と答え、ガラガラと何かを開ける音を立てた。梨子の言い付けを守り、自室の窓を開けたらしい。
《……おぉ、今日はよく見えますねぇ。左山さん、星座とか興味あるんですか?》
「あんまり分からないけど……でも、見るのは好きです。特に夏の夜は」
《俺はちょっとだけ分かりますよ! 夏の大三角形、見えますか?》
「うん……何処だろう? あっ、あれかなぁ……」
より輝く三つの一等星を見付けた梨子は、隣で龍一郎が夜空に指差す光景を思った。
「デネブ、アルタイル……ベガ、でしたよね」
《そうですそうです、その三角形の中に、別の星座があるんですよ、知っていましたか?》
習い憶えた知識を披露したがる子供のような声色に、梨子は堪らなく可愛らしさを感じ……。
それに誘発されたのか、初めて彼女は――他人に甘えるような声で言った。
「ううん。教えて?」
数秒の間を置き、龍一郎は明るい声で答えた。
《それは『こぎつね座』と言うんですよ! 目立たない星だけで構成されていますけど……何か、俺そういうの好きなんですよね》
星座に明るくない梨子は、当然ながら「こぎつね座」を発見出来ずにいた。しかし、それで良かった。重要なのは「龍一郎と雑談が出来た」事である。
主題から離れた閑話の繰り返し……これこそが睦まじい仲を形成する最大の要素であると、梨子はとうに気付いていた。
「近江君て、物知りなんだね」
使い続けた敬語の不使用。自分と年下の龍一郎との間に引いていた白線を、思い切って飛び越えたのと同義だった。素知らぬ風に行ったものの、梨子は強烈な緊張に襲われていた。
一段上から、優しげに頭を撫でるような梨子の声に……龍一郎は何を思ったかは分からない。
しかしながら――彼は「ケーキバイキングの件」を、自分から再浮上させたのである。
《……それで、ケーキバイキングの事なんですけど……》
あぁ、と梨子は余裕じみた声で返す。心臓が痛いぐらいに鳴っていた。
「それは……流石に近江君に迷惑かなぁって……」
《い、いえ! 迷惑じゃないです、本当です!》
緊張を悟られぬよう、スマートフォンを離して深呼吸し……梨子は「じゃあ」と囁くように言った。
「一緒に、行ってくれるの?」
左山家の冷蔵庫は一階のキッチンに置かれている。階段を降り、冷蔵室に入っているソーダアイスを取り出す梨子に、父親が「あれ?」と声を掛けた。
「梨子、お前、何だか顔が赤くないか?」
「そう? 部屋暑かったからかな」
バサリと新聞を閉じ、「エアコン点けているのか」と心配そうに問う父親。
「なぁ、母さんもそう思わないか?」
話を振られた母親は……アイスを舐める梨子の顔を見つめ、「そう?」と首を傾げた。
「アイスを食べたら治るんじゃないの」
適当だなぁ母さんは――呆れたように新聞を開き直す父親は、階段を上がる娘の背中を寂しげに見つめていた。
「そういや、この前は梨子、神宮祭に行ったんだっけ」
「行ったらしいけど」
「絵実ちゃんと、だろう? 女同士の友情ってやつだな」
ハハハ、と父親は微笑んだ。しかし母親は二階のドアが閉じられる音を聞き、溜息を吐いた。
「何も知らぬは男親、か……」
へっ? 父親はパチパチと瞬きをしてから、「どういう事?」と聞き返す。
「お父さんの思うより、娘は大人になっているって事よ」
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