左山梨子、動く
第1話:駄目でしょうか
絵実。悪いんだけどさ、ちょっと貴女の名前使わせて貰える?
三日前、梨子は電話越しにこう問うた。絵実は軽やかな調子で「オッケー」と答えてくれた為、梨子はお礼はするとお辞儀をした。勿論、通話相手には見えていない。
当然ながら……絵実の名を騙って怪しいローンを組んだり、詐欺紛いの行為に走る訳では無い。
梨子の想い人、近江龍一郎に吐くごく小さな「嘘」の為に絵実の名は利用される。
「効果的な嘘を吐く時は、多少のリアリティ――例えば実在する人間の名前、地名、事件名――を混ぜなくてはならない。初歩の初歩だ」とは、先日読了した推理小説の一文だ。梨子は気が咎めつつも、この日……夕暮れ時に電話を掛けた。
相手は近江龍一郎だった。
呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回……後戻りは出来ない。既に龍一郎のスマートフォンには(登録されていれば)、左山梨子という名で履歴が残っている。不退転の覚悟が試されているのだ。
五回目の辺りで、梨子は着ているTシャツを握り締めすぎて皺を作っていた。瞬きは増え、呼び出し音が妙にうるさい。
七回目を過ぎた頃……梨子はスマートフォンを置いた。
画面が変わる、「近江龍一郎」の横に応答無しと、目を突くような赤文字で表示されていた。
大きな溜息を吐き、火照る胸元に風を送ろうと襟首を掴んだ刹那――。
「っ!?」
スマートフォンが震え出した。画面には「近江龍一郎」と書かれている。律儀な彼は着信に気付き、すぐに折り返して来たのだ。
「はっ、はい! 左山梨子です!」
極度の緊張は梨子の対応を可笑しなものにした。「変な応答だ」と笑われるだろうか……梨子は真っ赤な顔で思いつつも、しかし龍一郎の声色は詫びるようなものだった。
《すいません、トイレに行っていまして……申し訳無いです》
「いえいえ、大丈夫ですよ! ごめんなさいこちらこそ……改めてこの前のお礼を言いたいなぁと……」
神宮祭から帰宅した梨子は、即座に龍一郎へ当たり障りの無いメッセージを送っていた。三〇分後に返信があり、「無事に帰れたようでホッとしました。これからもよろしくお願いしますね!」といった短文が梨子を小躍りさせた。
《いや、お礼なんてそんな……大袈裟ですよ左山さん。一歩間違ったらこっちがやられていましたよ……宇良川さんにも、あ、宇良川さん知っていますよね? 流れを話したら、キチンと止めを刺しなさいって咎められまして》
宇良川、宇良川……あぁ、あの人か……。梨子は相槌を打ちながら「宇良川柊子」の顔を思い浮かべる。フワフワとした如何にも女子高生、という彼女が、しかし梨子は苦手であった。
何だかあの人、怖いんだよなぁ……特に笑っている時。
《でも、左山さんが無事ならそれで良かったですよ》
その後、数秒の間が生まれた。梨子はすかさず「親手」を取り、「あのね」と語を継いだ。
「あのね、近江君。今日……電話をした理由なんですけど、お礼以外にもありまして……」
《何でしょう?》
ゴクリと生唾を飲み込み、目を細めながら梨子は言った。
「お願い、があるんです」
途端に龍一郎の声色が変わった。
《……以前の事で、ですか》
まだ何か、揺すられたりしているのですか――聞き手を刺すような低い声に、梨子は恐怖とは別の……奇妙な昂ぶりを感じた。
「ち、違います違います! 今回はその平和的というか、全然そういうのじゃないんです」
《あれ、そうでしたか……アハハ、すいません》
何処か影のある声、少年じみた明るい声……そのギャップが梨子の心を擽るのだった。
《改めて……何でしょうか? 出来る限り、お手伝いしますよ》
深呼吸し、何度も練習した「一言」を――梨子は意を決して発言した。
「賀留多について、教えて欲しいんです」
《へっ? 賀留多? それは左山さんの方が詳しいと思いますが……》
ううん、と梨子は筋書き通りに応答する。
「私が、というより……一緒に考えて欲しいんです。絵実……他校の友達なんですが、最近その子が賀留多について知りたがっていて。それも《こいこい》とか《花合わせ》とかじゃなくて、一風変わったものが良いって……」
龍一郎が「うんうん」と相槌を打つ。梨子は相手の興味が薄れる前に、一気呵成に話し続けた。
「それで、近江君なら《代打ち》だし、色々と技法を打っているかなぁって。網羅集は持っていても、実際に打った事のある技法はほぼ無くて……」
《なるほどですね、でも……俺もそこまで人に教えるレベルじゃないですよ?》
チラリと、傍らに置かれたチケットを見やる梨子。
「ううん、私より全然知っていると思うし……。それに、近江君には色々とお世話になっていますから、どうしてもお礼がしたくて……あの、良ければ――」
一緒に、ケーキバイキングへ行ってくれませんか?
ケーキ? 龍一郎の不思議そうな声が聞こえた。
「はい、ケーキです。この前に無料券が当たりまして……それが二人じゃないと入れないんです」
一度呼吸を整え、梨子はあえて「大胆な」発言を以てして、いまいち乗り切れない龍一郎を誘った。
「私とでは……駄目でしょうか」
《えっ……》
龍一郎はすぐには答えなかった。一方の梨子は……。
彼の、この反応こそを待っていた。数秒間でも返事が無いという事は、何かしらの「惑い」が彼に訪れている事を示唆する。
何故、俺と? 何故、「私とでは」という言葉を? 俺には「アイツ」がいるのに、どうして即答出来ないんだ――。
そう悩んでくれと梨子は、強く強く願った。
この際龍一郎に彼女がいようといまいと関係は無い、断られても致し方無い。
唯……「自分を好いているらしい上級生」がいるという事実を植え付ける――それが梨子の狙いだった。
更に梨子は追撃する。自身が傷付いたり、悔し涙に枕を濡らす事も覚悟の上の質問だった。
「……もし、彼女さんとかがいるなら……私、遠慮しますから」
殊勝な声色で呟く梨子。幾重にも張り巡らされた罠は、今か今かと龍一郎を絡め取ろうと待ち受ける。危険地帯に追い込むように、梨子は止めの一言を放つ。
「……すいません、急に変な事を……あの、今日の事は忘れて――」
《い、いえ!》
「えっ?」
急いたように……龍一郎は続けた。
《俺、彼女いないです》
「……本当ですか? あの、私の事は気にしないで――」
《本当です、俺いないんですよ、彼女》
恥ずかしながら……龍一郎は照れたように笑った。
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