第3話:モンターニュブルーの朝

 その日、梨子は朝の六時に起床した。目覚まし時計によるものではない。


 彼女の双眼は――自然と長針、短針が一八〇度となる頃……パッチリと開かれた。


「あら、どうしたの梨子?」


 トースターの音を聞いた母親が、寝室から驚いたように出て来た。既に食卓の上には紅茶(モンターニュブルー、母親のお気に入りであった)が置かれている。


「おはよう。お母さんも飲む?」


 え、えぇ……母親はぎこちなく頷いた。慣れた手付き、というよりは余裕に満ちた所作を娘に認め、母親はカレンダーを見やった。


「今日って……何か……」


「ちょっと出掛けるの。はい、どうぞ」


 そんなに早く準備をして、何処に行くの――そう問い掛けたくて仕方無い……母親はトーストを齧る娘を見つめ、思った事だろう。


 しかしながら、母親は何も問わない。


 訊かれたくない、。彼女にもその経験があったからに違い無い。


「……何さ」


 ジロジロと見つめてくる母親に、梨子はトーストの半分を食べ終えてから尋ねた。焼いた表面に薄らと粒餡を塗るのは、幼少時からのスタイルだった。


「別に。娘の成長を喜んでいるだけ」


「……あんまり見ないでよ、恥ずかしいから」


 母娘の対話はこれで終わった。後は梨子がトーストを完食し、デザート代わりのヨーグルトをスプーンで掬う間、母親は自身の化粧台から何かを持って来た。


「梨子。お守り、貸してあげようか」


「お守り……? ネックレスでしょ、でも……凄く綺麗だね」


 リビングに差し込む陽光に当てたそれは、小粒でありながら赤々と輝いている。梨子は右に左にとネックレスを動かし、都度煌めく「お守り」に夢中になった。


「ガーネットのネックレス、一応本物よ。パイロープ、だか何だか……そんな種類だった気がするわ」


 あやふやな知識でありつつも、梨子は素直に礼を言って身に着けた。鎖骨よりやや下方、所謂プリンセスタイプのネックレスは、果たして世代を超えて……梨子の肌に落ち着いた。


「結構似合うじゃない? 流石は私の娘ね」


 梨子は姿見の方まで行き、鏡に映る「想い人と一日を過ごす女性」の形を認めた。ほんの少しだけ赤い頬は、絵実と共に選び抜いたチークによるものではない。


 喜び、不安、期待、緊張、恋情……青春を生きる梨子の内奥から滲み出た「色」、それが頬の下地となり――チークのより良い発色を助けていた。


 この日、左山梨子はデートをする。


 相手は勿論――恋い焦がれる年下の彼、近江龍一郎だ。




 駅の南口、そこので一〇時に待ち合わせましょう――。


 龍一郎の指定した場所へ到着した梨子は、キョロキョロと辺りを見回す。まだ待ち人は来ないようだった。当然である。現時刻は、大抵の人間は待ち合わせの一時間前から待機はせず、精々一五分前を目掛けて現地へ向かう。


 だが、梨子はそれで良かった。万が一指定の時刻に遅れそうになり、走って向かうとなると……ポタポタと汗を掻いてしまう。代謝の良い梨子にとって、夏場の駆け足は大敵である。


「……もう二三度かぁ」


 デパートの側面に大きく表示されている現在気温は、暑がりの梨子に溜息を吐かせた。空には雲が殆ど流れない快晴だ。時が経つにつれ更なる気温上昇は避けられない、日焼け止めパウダーを持って来て正解だった……梨子は胸を撫で下ろす。


 日陰のベンチに腰を下ろし、梨子は広場を行く通行人を眺めていた。自分と同じ年頃らしい女性が、遠くに向かって手を振っている。遠方より若い男が手を振り返す。少し気恥ずかしいらしかった。


 ふと、横断歩道を見やる梨子。腰の曲がった老婆が日傘を差し、大変ゆったりとした歩速で道路へ出た。


 老婆の横を行く人々は皆が若い、スタスタと横断し終え、気付けば反対の歩道を歩いている。しかし老婆はようやく半分の距離に差し掛かり、チラリと信号を見やった。


 その時、老婆は体勢を崩してしまった。怪我こそしていないものの、点滅を始めた信号に焦ったらしく、上手に立ち上がる事が出来ない。


 梨子は――夢中になって駆け出した。素早く老婆に駆け寄ると、「一緒に渡りましょう」と声を掛けた。


「……あぁ、ごめんなさいねぇ」


 日傘を持ってやり、老婆の手を引いて一歩、また一歩と進んで行く梨子。とうに信号は赤くなり、並んだ車列の後ろからはクラクションが聞こえた。横断歩道での状況が見えぬ故の反応だった。


 ようやく渡り終え……梨子は老婆の膝に付いた砂埃を払った。


 お婆ちゃんが生きていたら、きっとこのぐらいの年齢だろう――梨子は亡くした祖母と、見も知らぬ老婆を重ねていた。


「怪我とか、されていないですか」


「いや、いや……それより、若い娘さんに迷惑を掛けて、ごめんなさいねぇ」


 暑かろうに……老婆は梨子の額に滲む汗を見つめ、申し訳無さそうに頭を下げた。


「こんなの大丈夫ですよ、私、汗っ掻きなんで」


 喉が渇いたでしょ、お礼をしなくちゃね、と老婆は周囲を見渡す。自動販売機を探しているらしかった。


「要らないですよ、お礼なんて……横断歩道を渡っただけなのに、そんな……」


「良いんです、良いんです。娘さんに使うなら、これも活き銭だからねぇ」


 結局……梨子は三本も飲み物を買い与えられ、「暑いから」と塩飴も三つ渡され、老婆と別れた。缶ジュースを抱え、元のベンチへ戻った梨子は、その内の一本を開けた。林檎ジュースだった。


「……汗掻いちゃったなぁ。汗臭い……のかな」


 ハンカチで汗を拭きつつ、クンクンと身体を嗅ぐ梨子。


 その刹那――。


「お待たせしました」


「ひゃいっ!?」


 ビクンと身体を大いに震わせ、即座に顔を上げた梨子は……。


「何していたんですか?」


 不思議そうに首を傾げる龍一郎を認めた。


「ええぇ……? いや、そのぉ……」


 汗臭いかどうか、嗅いで確かめていました――などとは口が裂けても言えず、しかしスンスンと鼻を動かしていたのは事実であり、梨子は今にでも逃げ出したくなった。


 そこで梨子は「力業」に頼る事とした。


「そ、それより! 近江君、まだ三〇分前ですよ? もっと遅くても良かったんですよ、はい!」


 いやぁ、それが……龍一郎は笑った。


「朝の六時に起きちゃって。時間を持て余していたんです、だから早く来ちゃいました」


 私と一緒じゃん……心臓が高鳴るのを感じた梨子は、ハンカチで素早く汗を拭き取り、「とりあえずどうぞ! 飲んで下さい!」と缶ジュースを差し出した、が……。


 龍一郎は受け取ろうとしない。何処か遠慮がちな目で、差し出された缶ジュースを見下ろす。


「……飲んで良いんですか、それ?」


「はい勿論! ――あっ」


 梨子は重篤な失態を犯した。封の開いていない方ではなく、開封済み……要するに――。




 を、「さぁ飲め」と差し出していたのだった。




「ま、まま、間違いでしたぁ! ごめんなさいごめんなさい! そんなつもりじゃ無かったんです、本当ですからぁ!」


 九時三五分。待ち合わせスポットとして有名な石像広場に、梨子の謝罪が幾度も響いた……。

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