第3話:梨子の忌夢
「あら、梨子ったら浴衣を買って来たの?」
娘の不意な買い物に驚く母親は、「まさか……」と邪推を止めない。
一九時前、遠い山に沈んで行く太陽を見やりながら帰宅した梨子は、未だ自室のある二階に向かえずにいた。母親はニヤニヤと袋の中を検めようとし、「早く言いなさいよ」と嬉しそうに小突いた。
「べ、別にそういうのじゃないもん……絵実と一緒に行くから、一着くらいあっても良いかなって思っただけ」
「本当にぃ? 何だか気になるわねぇ……まぁ良いわ、神宮祭に行くんでしょ、着付けは出来るの? 万が一って事もあるんじゃないの?」
ピクリと梨子の眉が動く。そして……娘の反応を悟れぬ程、母親という生き物は甘くない。
絵実と別れて列車に揺られている間、梨子はスマートフォンで「浴衣 着方 簡単」と検索し、モデルがスイスイと着替える動画を熱心に見ていたが――。
手順は多分大丈夫だけど……ちゃんと、綺麗に着れるかって話だよね。長く歩くだろうし……。
梨子は表情を曇らせた。ふと――絵実がパフェを食べながら提案した「取って置きの作戦」を思い出した。
「えっ!? さ、誘うの? お祭りに……?」
「だってそれしか無いじゃん。一番手っ取り早いよ、しかも確実!」
「いや、でも……私、連絡先知らないし……」
「そこは誰かに聞くのさ、その子、色々と有名なんでしょ? 同学年に関係している人も絶対いるって」
「…………いるけど、その人は別のクラスだし……何か、怖いし……」
「怖いったって、何も刃物持ち歩いている訳じゃ無いでしょ? 大丈夫大丈夫、案外すんなりと教えてくれるかもよ」
「あの、絵実? 私、その人の連絡先も知らない……」
「えっ、マジ? だったら……良し、こりゃあ覚悟を決めるしかないね」
「覚悟って――」
「私も一緒に行ってあげる、そして……その子を捜し出す!」
「そ、そんな事をするの!? それに……他の女の子といるかもしれないのに?」
「フッフッフ、そんなのは予想しているよ、梨子? 他の女がいようがいまいが関係無いんだよ。重要なのは『非日常の服装をしている左山梨子』を見せ付ける事、いつもと違う自分を見て貰う――名付けて『恋の侵略戦争』!」
何処までも付き合いの良い友人を持ち、梨子は大層幸福であった。幸福ではあったが……絵実の称する「武器」が皺だらけになってしまえば最大限の効果は見込めない。
かといって母親に話すのも気恥ずかしいし、「夜祭りへ行き、想い人が見付かるまで歩きます」と説明するのは更に気が引けた。
もしかすると、自分は途轍も無いおかしな事をやろうとしているんじゃ……梨子は顔をしかめつつ、脳内の天秤に実益と世間体を載せる。
果たして――梨子は着付けの資格を持つ母親に依頼する事とした。
「はいはい。……絵実ちゃんと行くのに、気合い入っているのね」
「……久しぶりだからね、ちゃんと着ていないと格好悪いでしょ」
ふぅーん、と母親は野菜をまな板からフライパンへ流し込んだ。
「ちなみにだけど」
遠い昔を懐かしむように……母親は換気扇を見上げた。
「私とお父さんが初めて会ったのは、神宮祭よ」
目を見開く梨子の額を、悪戯っぽく笑いながら母親は指先で突いた。
「要するに――縁起が良いのよ、あの祭りは」
カレンダーに書いておかなくちゃね、と母親は振り返り、神宮祭の開催日に大きな花丸を描いた。
夕食を終え、梨子はベッドに横たわりながら《望小花》を一枚一枚、絵画を見るように捲っていた。
この札で《お七櫓》に失敗した時から……梨子は何れの占術技法も試していなかった。悩みが解消されたという訳では無い、唯、「必要性」が認められないだけだった。
今、梨子は年下の少年に心を惹かれている。
その少年には恐らく「適した少女」がいて、二人の想いが成就するのも時間の問題だった。
占術の結果のみを信じるのなら、梨子の想いは実る事無く、儚く散ってしまうはずだった。「適した少女」は梨子に比べ、余りに有利な状態にある。
その事実を自覚しろ――と、梨子は占術に失敗する度に言われる気がした。彼女にとってその再確認は堪らなく不快であり、同時に自身の抱く恋情を恨んだ。
私にだって、きっと恋をする資格はあるんだ。でも、叶える資格は何処にも無い。持っていたらいけないんだ。
だって、そんな事をしたら私――。
あの子を……悲しませてしまうから。
札を置き、梨子は照明を消して仰向けとなり、ボンヤリと天井を見つめた。窓の外から聞こえる虫の声も、今日は何処かもの悲しげである。
梨子は溜息を吐いた。
誰かを好きになる。青春だ、素敵な事だって皆は言うけど、私に限ってはそうじゃない。
誰かを好きになるって、誰かと敵対する事なんだ。
お願いします、神様、仏様。私を「悪い人」にして下さい。他人の事を無視出来る、気にせず走って行ける駄目な人間にして下さい。
何もかも捨て置いて、彼に抱き着く勇気を下さい――。
その内……梨子は夜風に包まれ、眠りに落ちた。
この日に彼女は「夢」を見た。楽しく、同時に嫌悪すべき夢であった。
内容は至って簡単なものである。梨子が少年の腕に抱き着き、満面の笑みを浮かべて――「適した少女」に嫌らしい声でこう言い放った。
ごめんなさいね、私達はもう付き合っているの。でも、仕方無い事でしょ。だって好きなんだもの、貴女よりずっと、ずーっと、好きなんだから……。
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