白羽の矢が立つ

時谷碧

変化

「おめでとう」


 ちっとも本当にめでたいとは思っていない顔で、すれ違う村人みんなに言われた。

 自分の家じゃなくて良かったって、みんなそう思ってる。


 一年に一度、新月の夜に白羽の矢が立つ。

 屋根に白羽の矢があったならば、その家の子供は、『ぬしさま』のところへ行かねばならない。


 それは大変名誉なことだと、大人たちは言う。

 だけど、『ぬしさま』の所に行って、帰ってきた子供はいない。


 選ばれなかった村人に許された生き方は、『ぬしさま』の言いつけで、閉じられた村で一生を過ごすこと。出ていくには選ばれる必要があって、選ばれればどうなるかわからない。


 そんなの許せなかった。


 私は海を見てみたかった。

 見渡す限りの水があって、舐めてみれば塩辛いという海。村にある、古い本で読んだことしか知らないけれど、この世界のどこかにあって、陸の端にさえ行けば、たどり着けるらしい。白黒の絵じゃない、本物の海に。

 海に、行ってみたかった。


 実は私は、『ぬしさま』が張ったという境界の綱を、一歩だけ越えてみたことがある。

 たった一歩。バレないうちにと、すぐに戻った。

 越えれば死ぬと言われていたのに、私は生きている。

 それだけで、『ぬしさま』への疑いを持つには、十分だった。


 そして昨日の新月の晩。

 私は矢を盗んだ。


 私の両親を含む『ぬしさま』の敬虔な信者である村人や、単純に『ぬしさま』を恐れている村人は、新月の晩には、早いうちから眠りにつく。


 白羽の矢は、それを恐れた子供が隠したとしても、いつの間にか同じ家の屋根にまた刺さっているから、ほとんどの村人は怯えるだけで、手出しをしようとはしない。悪戯をしそうな子供は厳重に閉じ込められている。


 この日の為に、いい子にしていた私が、抜け出して矢を盗むのは難しくなかった。

 隣の家の屋根に刺さった、その艶めかしくも美しい白羽のついた矢を、自分の家の屋根に突き刺した。

 できるだけ、刺さっていた時の様子を真似たから、村人には判別がつかないはずだ。屋根の補修をするふりをして、穴を事前に開けておいたから、刺さる深さや角度も問題ない。


 そして、こっそりと各家から矢の行方を伺う村人は、白羽の矢が、自分の家ではない、誰かの家にある限り、文句は言わない。

 そもそもこうして覗いているくらい『ぬしさま』への信仰度が低いのだから、矢の位置が多少変わったところで咎めはしないし、『ぬしさま』が気に入らなければ、二の矢を放つなりして、どうにかすると知っている。私もそれだけが気がかりだった。


 作業を終えると、異質な、村人ではない何者かの視線を感じた。

 敵意は感じないが、取るに足らないものを見るような、まるで人間が蟻の行列を見ている時のような、そんな気配がした。


 矢を盗んだ次の日の朝、不思議なことに、二本目の矢はなく、なんの疑いも持たれずに私が選ばれることができた。


「おめでとう」


 両親のこの言葉だけは本気だった。

 選ばれたのが、私であることを誇らしく思っている。

 矢を盗んだことを知ったら、なんて言うんだろうか?

 単に脱走するのではなく、白羽の矢を盗んだのは、この愚かしくも善良な両親を悲しませないためだった。思惑通り、両親は喜んでいるように見えた。

 これで、心残りはない。


 禊を終え、白い衣を纏い、お神酒を飲まされ、『ぬしさま』の山に入る。

 ここは禁足地だから、村人は追って来れない。


 山はそれほど高くはない。

 けれど、海は大きいと聞くから、登れば見えるかもしれない。

 境界の綱が左右に張られた道を歩いた。


 慣れない装束のせいで、登るのに時間がかかってしまった。

 もう夕暮れだ。日が沈む。


 やっと着いた頂上で、不気味な存在感を放つお社を無視して裏手に回る。

 山の向こう側を見てみたかった。


 半分になった夕日が、うねうねと揺らめく尻尾をふっていた。

 尻尾が撫でる、ざらざらとした質感の黒い平面、それこそが海。


 あそこに、行きたい。


 気が付けば、境界の綱が体にめり込んでいた。

 もう境界なんて関係ない、私はあそこへ行くんだ。


 綱を潜り、一歩踏み出した。


 途端、視界が歪んだ。

 お神酒を飲ませられた時のように、体が熱くなって、脳がくらりと揺られる。手も、足も、言うことを聞かなくなって、地面に倒れ伏した。

 どくどくと自分の心臓が脈を打つのが煩い。

 体の熱は、耐えがたいほどの痛みを伴いだした。


 死ぬのかな。

 視界の半分は地面に覆われ、残りの半分にはお社があった。

 せめて最後に見るのは、海が良かった。


 誰かが近づいてくる気配がした。


「おや? 生きているのかな」

 鋭い爪を備えた、大きな猛禽の足が見えた。後ろに、見覚えのある艶めかしくも美しい白い尾羽を引き連れている。白羽の矢の主、『ぬしさま』だろう。


 私は、まだ生きている。

 そう抗議しようとしても、声は出なかった。不明瞭な呻きだけが漏れた。


「進行が早いね。矢を盗んだ君のことだから、これまでに、綱を越えたことでもあるんだろう」

 ひんやりと柔らかい羽が、私に触れた。


「さて、僕は君を生かすことができる。ただし、君がそれで良かったと思えるかはわからない。そういう方法だが、それでもいいなら何か言いなさい」


 海へ、行きたい。


 またしても、声にはならない、ただの呻きが漏れた。


「わかった」

 視界が揺れた。『ぬしさま』が私を抱き上げたんだろう。ちらりと見えた『ぬしさま』の顔は人に似ていた。


 『ぬしさま』の、人に似た指先が、動かなくなった私の瞼を閉じさせて、視界は真っ暗になった。

 意識が遠くなっていく。『ぬしさま』はまだしゃべり続けているけど、だんだん聞き取れなくなっていく。


「君は今、生まれ変わって……んだよ。一体……になる……だろうね。そんな君に、この……を贈……」


「おめでとう」




 翌朝、人の姿が入り混じった漆黒の怪鳥が、海へと飛び立った。


「おとなしく待っていてくれれば、人のまま出してあげられたものを」

 白い影は、独り呟く。

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白羽の矢が立つ 時谷碧 @metarou

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