「殺そうか?」と持ちかけたことがある。それが、ケイの数少ない嘘でなかった言葉だ。けれど、エルは鼻で嗤って答えなかった。おそらく普段通りの戯言に受け取られたのだろう。
もしもあの時エルが肯いていれば、ケイは喜んで殺してた。
エルは沢山のことを諦めていたけど、強かった。一人で呑み込み、一人で抱えていた。「生きろ」なんて嘘でも言えない。ケイだって自身の生を疎んでいるのに、エルに押しつけられるわけがない。彼女がとうとう楽になることを選んだ、そのとき。ケイの手がその息を止めることを、エルが許してくれたらどれだけ嬉しかっただろう。
エルが死んだのを知った日、ケイは茫々と泣いた。僅かばかりの羨望とぽかりと空いた虚無感が混じり合い、不思議と涙になって零れていった。普段と変わらない、エルが美しいと気に入っていた海。亡骸はとうに引き上げられ、もうこの海の何処にも彼女はいないと分かっていても、エルの魂が眠るのはこちらのような気がした。
嘘を吐くのは、嘘なら否定されても悲しくないからだ。そこに、ケイの心は無い。他人に踏みつけられ嘲笑われる其れに、ケイは含まれない。だから生きていられる。
皆、ケイを噓吐きと言うけれど、誰も本当のことなんか気にしちゃいない。否定されているのはケイの考えや言葉ではなく、ケイの存在そのものだと気づいたのはいつのことだったろう。だったら本心なんて要らない。何を差し出しても駄目だといわれるならいくら壊されても平気なものを選ぶ。
あまり喋らないエルといる時は、嘘を多く吐かずすんだ。エルはケイを空気か何かのように扱ったけど、傍らにいることを拒むことはしなかった。
並んで海を見るのが好きだった。
あの不思議な少年は、エルに物語を届けてくれたのだろうか。ケイはその物語を読んでいない。きっとろくな話ではないと思う。
ケイが幸福であれば、エルの幸せもまた願えたかもしれない。エルを想い、エルと共に生きる。そんなことを望んだかもしれない。でも嘘だ。全部嘘。ケイはエルの苦しい時間が早く終わればいいと願ってた。
「俺が読み取る物語に完璧なものはないよ。欠けてたり、余分なところがあったり、矛盾だっていっぱいある。そういうものさ、人の心の中に眠る物語は。
俺はケイのことはよく知らない。でもきっとケイの心にあったのは、あなただったんだよ。嘘だらけでも、ケイはこの物語を送りたいと願った」
「俺は人の心までは読み取れない。…だから、この物語から何かを見出してやれるのはケイと一緒にいたあなただけだ」
少年が立ち去り、またこの世界はエルだけになった。穏やかな静寂の合間を縫うように漣が繰り返される。
手には、一冊の本。生きていたとき、どうしてかよくエルと一緒に海を眺めた、無口な嘘吐きの物語だという。ただでさえ嫌われてるのに、一家ごとはみ出し者だったエルの傍になんかいた馬鹿だ。そいつらしいくだらない物語に、馬鹿げた結末。
エルはその物語を海に沈めた。波がすぐに攫い、それは美しい海の一部となる。もう二度と読むつもりはなかった。エルなら何かを見出してやれるとあの少年は言った。けれどエルだってケイのことは何も知らない。
殺そうか、と言われたことがある。馬鹿らしいからと相手にはしなかった。エルは他人に損なわれるのが嫌いだ。終わるなら必ず自分でと決めていた。
ケイは馬鹿だ。エルは何もしてやらなかった。大して関わろうとしなかったし、優しい言葉をかけたことなんて一度もない。なのにまだエルを忘れていない。出来損ないの物語まで送ってきた。馬鹿だ。エルは何も理解してはやれない。何も叶えてはやれないのに。
嘘吐きのくせに、嘘が下手だった。普段はエルと似たりよったりな無表情なのに、嘘を吐くときだけへらりと笑う。エルは他人に壊されたけど、ケイは自分で自分を擦り減らし続けているように見えた。それはエルよりも生き辛いことかもしれない。
死んだエルにできるのは、ケイの本音を包んだ嘘ごと海に沈めることだけだ。こんな馬鹿げたもの、一生沈めていればいい。此処にケイの今までの物語があるのなら、これから先の物語は、また彼自身が紡いでいくのだろうか。人の心に存在するという物語。今度はもっとマシなものにしてみろよ、と投げやりに思った。
空音の告白 立見 @kdmtch
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