三度目の桜吹雪

半戸ルネーム

三度目の桜吹雪

弥生やよいちゃん、卒業おめでとう」


 立夏りっか先生は、私と初めてあった時と同じように笑う。形の良い眉を下げて、にっこりと。声は綺麗なソプラノだし、小柄でかわいいし、何もかもが私とは正反対だ。


 空いていた窓から吹き込んだ春風が先生のシンプルなブラウスを揺らす。飾り気がないと言えばないが、清楚な感じがとても似合っていると思う。


 ──この人が私の彼女・・だなんて嬉しすぎる。


「先生、私、あの時告白できてよかったです」


「どうしたの、急に。脈絡がないわね」


 私の会話の流れを無視した返事に目を見開いたあと、クスクスと笑って口元を隠す先生。


 反則級に可愛い。


「でも、私も弥生ちゃんと仲良くなれてよかったと思うわ。告白してくれてありがとう」


 そう言ってから立夏先生は猫のイラストがプリントされたマグカップに手を伸ばした。そのマグカップは高一のときに私が誕生日プレゼントとして渡したものだ。先生はマンションに住んでいてネコを飼えないらしい。


 そんなことを先生が話してくれたのもこの部屋、社会科準備室だった。

 立夏先生は日本史の先生で、とても眠くなる──いや、穏やかな授業を行うので有名だ。彼女のあまりに心地よいエンジェルボイスにより快眠に誘われてしまった生徒も数知れない。


 会話が一旦止み、私たち二人だけのゆっくりとした時間が流れて行く。


 窓から見える満開のソメイヨシノや、遠くから聞こえる卒業生を祝う声、春を喜ぶ鳥の歌。陽に晒されてすっかり黄色くなった世界地図。

 どれもこれも多分もう見ることはない、ありふれているけれど大切な景色。それを大好きな立夏先生と共有できているなんて素晴らしい。


 先生は自分で持ち込んだコーヒーメーカーから一杯注ぐと、私の方に近づいて来た。


「今日であなたはこの学び舎を旅立つわけだけれど、何か訊いておきたいこととかはある?」


 コーヒーを冷ますために息を吹きかけながらそう問いかける先生。

 質問したいこと……あえて言うなら一つあるかもしれない。



「そう言えば、一つ聞いてもいいですか?」


「何かしら」


「どうして私と付き合ってくれたんですか?」


 実は三年間ずっと、もっと言えばオーケーをもらった時からずっと思っていた。立夏先生はまだ若くて、とても綺麗で、それこそ引く手数多だろうに。


「そうね……三年前、あなたはどんな言葉で私を口説いたか覚えているかしら?」


 ある意味で苦い思い出である。

 入学式で立夏先生に一目惚れしてしまった私は勢いそのままに告白したのだ。ホームルームが終わると同時に学校中を駆け巡って、やっと見つけて追いついて、そうして想いを告げたのがこの場所だった。


 我ながら頭がおかしい。

 中学までの私はそんなに行動派というわけでもなかったのに。だからこそ自分がどんな台詞を吐いたかは脳裏に刻み込まれている。


「卒業するまで、三年間でいいから夢を見させてください……ですよね」


 恥ずかしさに頰が紅潮する。


「そう。何かのマンガならまだしも現実で、しかもこんな綺麗な女の子にそんなこと言われるだなんてね……びっくりしちゃった。でも、この子のこともっと知りたいな、って思ったのよ」


 ──私はどんな子でしたか、そう訊こうとする私の声は口の中でモゴモゴと消えていった。

 自分の感想を聞かせてください、だなんて図々しいにも程がある。


 そんな私の心情を読み取ったのかそうでないのか、立夏先生は手元で弄んでいたマグカップをデスクに置いた。


 それでね、と切り出す先生。





 そして言った。



「──区切りをつけましょう、弥生ちゃん。いや、如月弥生さん」


 ふわふわしていた私の心が一気に冷やされ、酷い悪寒が背筋を伝った。何を言っているのか、はっきりと聞こえた、はずなのに上手く理解ができない。

 大好きなはずの準備室の香りが嫌に鼻をつく。


「……区切りって、なんのですか?」


 音を立てて早くなる鼓動に頭痛を覚え、額に手をやる。時間が一瞬止まってから私が追いつけない速度で流れ出した。


 まさか、まさかまさか、そんなことはない。だって今の今までの会話はなんだったんだ。あんなに優しい雰囲気で、いつも通りの優しい天使のような先生は先生で──


「弥生ちゃん、卒業ってとっても素晴らしいことだけれど、私はそれだけじゃないと思うの。だってそれまで教師、生徒、同級生、先輩後輩って名前の付いていた関係が全部なくなるのよ」


「でも、先生は先生で──」


「生徒じゃないのよ、もうあなたは、私の」


「そんな……」


「三年間だって、言ったのはあなたよ」


 たしかに私は“三年間でいいから"とそう言った。でも、一緒に過ごして楽しかったし、楽しんでもらえていると思っていた。当たり前にこれからもずっと居られると思っていた。


 想い出がまぶたの裏から剥がれ落ちていく錯覚。

 笑う先生の声、口元、ふと触れる指先や整えられた爪、優しげな黒目がちの瞳、寄り添う体温がこぼれ落ちてゆく。


 嗚咽が止まらない。先生の前では抑えようと思っていても止まらない。


「…………先生、すみません。そうですよね、迷惑でしたよね。迷惑な生徒でしたよね、私。すみません、私……」


 これ以上はダメだ。このひとの前にはいられない。内心分かっていた。先生にとっては所詮子供の遊びに付き合ってあげただけのことだったのだろう。

 そう言い聞かせても、むしろ言い聞かせるたびに吐き気が湧いてきて胸を一層強く締め付ける。


 でも、こんな顔を見せたくはない。


 せめて、笑顔を見せて、先生の目を見てありがとうと言おう。


 覚悟を決めて制服の袖で涙を拭い、前を向いて──




 窓から、桜吹雪が舞い込んだ。

 口元に柔らかい感触。知らない感触。

 私の両顳顬こめかみに添えられるのは冷え性だと言っていた彼女の手。

 しっかりと、私の酷い泣き顔が映り込むくらいにこちらを覗き込む優しくて凛としたまなじり




 ──キス、されていた。


 数秒なのか数十秒なのか。時間という感覚がなくなってきた頃に漸く立夏先生は唇を離した。


「まったく。弥生ちゃんはとっても迷惑だったわ」


 圧倒するように可愛らしく、私のすぐそばで見上げるような仕草をとる先生。そのまま理解が追いついていない私に話し続ける。


「いい雰囲気になるたびに『手を繋ぐだけでいいです』なんて興醒めも興醒めよ、それに、こっちは教師だから手を出したらダメに決まってるのにガンガン来るんだから本当にイラついてたわ、私は別にドエムじゃないんだからお預けプレイなんて最悪も最悪」


 いつも清楚で上品な先生と同一人物だとは思えないくらいにまくし立てる先生。

 一息でイメージを覆された。


「……区切りをつけるって、別れ話じゃなかったんですか?」


 先生は困ったように溜息をつくと私の頭をチョップのような形で軽く小突いた。


「弥生ちゃんは今から別れるって人にキスをするの?しかもファーストキス」


「え、でも先生はさっき──」


「もう先生じゃないって言ったでしょう?私はあなたの大好きな立夏先生じゃないの。私はただのあなたの恋人、桐生立夏よ」


 また涙で視界が歪む。今日の私は本当に涙腺がゆるい。先生には私の綺麗なところだけを見て欲しくて、ずっと強がってたけど、これはダメだ。


「可愛いからそうやって隠さないの。泣いてたって弥生ちゃんは最高に可愛いわよ」


 ──よろしくね、弥生──


 耳元でそう囁かれ、遂には泣き崩れてしまった私は先生……いや、立夏さんの胸の中で大号泣してしまうのだった。







 △▽△▽





「すみません、先生……じゃなかった、立夏さん。電車が遅れちゃって」


「大丈夫よ、私も今来たところ……なんてね。言ってみたかったからちょうど良かったわ」


 立夏さんは相変わらずお茶目で、可憐で、でも私の天使様ではなくて。

 ちゃんと私の恋人だ。

 高校を卒業した私は地元の公立大学に、先生は市内の別の高校に転勤になった。入学を機に一人暮らしを始めた私は先生を部屋に招いたり、逆に招かれたり、その度に白昼堂々と言えないこともしていたりする。


 そして今日は大切な日。


 桜のこの季節が私たちの記念日。


「何もなしで済ますのは悪いのでコーヒーでも奢りますよ」


 立夏さんは最近、サラサラのボブを落ち着いたブラウンに染めた。麗らかな風になびいているのは眼福である。

 この時期ならば桜ブレンドとかがあるだろう。コーヒーが好きな立夏さんの笑顔が見られるなら遅刻も良かったかも。良くないか。



「弥生ちゃんはやっぱりイケメン系女子ね」


 そう言うと立夏さんは数歩歩いてから振り返り、こちらに手を差し伸べた。


「エスコートしてくれるかしら、弥生?」


「喜んで」


 私たちの、本当の恋人としての三周年。デートコースを頭の中で反芻しながら私は立夏さんの手を取り歩き出した。






 ちなみに、立夏さんは誘いネコだった。


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