寺田くんの足が折れた話。

舞島由宇二

記憶の果てに咲く花

 どうやら同級生の寺田くんの足が折れたらしい。

 先程から私の目の前でジタバタともがいている寺田くん本人が言うのだから間違いない。

 しかし寺田くんはよく嘘をつくので、信用ならない。

 寺田くんは夏になると冬を愛し、冬になると夏を愛する典型的なオオカミ少年だった。

 プリンが宇宙で一番好きだと言えば三日後にはゼリーが太陽系で一番だな、などと平気で言う寺田くんはもはや狂ってすらいた。

 寺田くんは、本当に信用ならない。


「おい、藤村聞こえてるんだろう、救急車を……もしくは人を早く呼んできてくれ!痛いんだ、折れたんだ、折れてるんだよ足が、おい藤村早く、痛い、早く…!」


 寺田くんの痛切な声は確かに聞こえていた。

 でも何故なのだろう、身体が動かない。

 確かに寺田くんは病的なまでに嘘をつくし、ほとんど狂っているけれど、今回ばかりは本当だということもよくわかっている。

 嘘で、あのような真に迫ったジタバタは出来ない。

 寺田くんは本当に痛いのだ。


 ――でも何故なのだろう、身体が動かない。


 昔から痛がっている人を見ることが苦手だった。

 痛がって苦しんでいる人を見ていると吐き気がこみ上げ、怖くて震えるのだ。

 きっと凄まじい痛みなのだろう、きっと猛烈な苦しみなのだろう。

 そんなことを考えていると自然と涙が溢れて来るのだ。


 目をギュッと固く閉じ、

 どうにかして助けてあげたい、その痛みから苦しみから解放してあげたい、

そう願う。


「だったら早く救急車を呼んでくれ藤村!もしくは人を呼ぶんだ、痛いんだ、苦しいんだ、助けてくれ、早く、痛い痛い痛い、吐きたいのは俺だ!」


 どうやら強く想うあまり、言葉が自然と口から出ていたらしい。

 しかし、吐きたいのは私なのだ。


 ――ッッ!!

 その時、私はとんでもないものを目にした。


 いまだその折れている足をおさえ、ジタバタと悶え苦しみ横たわる寺田くんの身体の少し先に小さな小さなヒナゲシの花が咲いているのだ。

 ここは学校の廊下だ、ヒナゲシの花が咲くはずがなかった。

 ……なのに、咲いている。

 廊下の床からヒナゲシの花が……凛と、一輪。


 寺田くんの痛みと苦しみを想像するあまりに流した涙は、実はとうの昔に枯れていた。

 しかし再びヒナゲシの花の美しさに涙が流れた。


 ヒナゲシの花には特別な思い出があった。


「……おいっ!おいっおいっ!藤村、なんで助けを呼ばねえんだよ!痛えって言ってんだろう、痛えんだよ!痛え!死ぬ!痛えのっ!助けてくれよ!痛えんだよ!……ああ!もういい!自力で職員室行くから!藤村死ね!お前の足が折れろ!」


 みっともなく、寺田くんがズリズリと這い出した。

 寺田くんは騒がしいから学校中の嫌われ者なのだろうなと、しばらく見つめていると、


 ――ッッッ!!

 私は気づく――このままでは、

 反射的に私の足は力強く一歩を踏み出していた、二歩目の左足も強く強く地を踏みしめ、そのまま地面を蹴り上げ、――宙に舞う。


 ヒナゲシの花が危ない。


 匍匐ほふく前進の要領でズリズリとみっともなく無様に這っている寺田くんにこのままだと潰されてしまう。


 守らねばならない。

 ヒナゲシの花を。

 この悪魔のような男から。



 ヒナゲシの花には特別な思い出があったから――。



 ――かつて家族でラベンダー畑を訪れたことがあった。

 広大なラベンダー畑は圧巻だった。

 ラベンダーだらけだ、凄いな、と家族の誰もが口々に言った。

 私と姉はベンチに座って見ることにした。

 眼前をラベンダーがラベンダー色に染め上げた。

 ベンチの隣で姉が目が疲れたわ、と言った。


「あっ、季節外れのヒナゲシ。」


 その言葉で私は姉の方を見やる、が、ラベンダーを見ていた後遺症で姉がラベンダー色に見えた。

 ほらこれっとラベンダー色した姉はベンチの足元に咲いているヒナゲシを摘んで私に渡した。


 いまだラベンダー色で染まる私の視界の中、そのヒナゲシの花だけが赤く浮かび上がる。

 これはスライスしたトマトの赤だ、そう思った。


「なんかさ、お昼ご飯はそばがいいな……ヒナゲシ関係ないけど、ヒナゲシ見てたらそばがいいなって思った。それは関係がないと言えるのかな?」

 わからないな、と私は言った。


 その日はまるで5月みたいな気候で、まるで5月みたいな風が終始吹いていて、天にも昇りそうなほどに心地良く、本当に5月みたいだなと思った。



 ――廊下に咲くヒナゲシの花もあの日と同じスライスしたトマトみたいな色をしている。

 ここに咲き続けていたらそのうち心無い誰かに踏まれてしまう、それであるならば私の手で……と思うが、なかなか摘む勇気が出ない。


 しばらくヒナゲシを見つめてみる。


 ’’誰かに踏まれてしまうことに実はそこまで心は痛まない、それよりもなによりも他の誰かに摘まれるのは、耐え難い。’’

 見つめていたら、そんな結論に辿り着いた。

 私は廊下に咲くヒナゲシの花を摘むことにした。


 そうだ押し花にするなんてどうだろうか。

 それを栞にしてイトコのミキちゃんにあげるのだ。

 ミキちゃんは喜んでくれるだろうか。

 そもそもミキちゃんは絵本しか読まないので栞を使う機会があるのかわからないけれど、とにかくミキちゃんにあげよう。

 私は強くそう誓って、そっとヒナゲシの花を両の手のひらで包み込んだ。




 翌日寺田くんが入院したらしいと幼馴染のサトシから聞いて私は驚いた。

 ちなみにサトシはパンチパーマだ。


 寺田くんは足を骨折したらしい。他にも腹部や背中、腕に、いくつかの殴打痕があったようで何者かによって暴行されたのだろうとのことだ。しかし、寺田くんはその時の記憶がなくなってしまっているようで犯人が誰なのかはわからず終いとのこと。どうやら一時的な記憶障害らしく、医者の話だとあまりにもショックなことが起こったせいで自己防衛本能から脳みそがその時の記憶を飛ばしたらしいとのこと。


「なんでも昨日の夕方4時位のことらしい。寺田のことだ、誰かに何かしたから誰かに何かされたんだろうさ。」

 サトシは、さもどうでも良さそうにそう言うと川に向かって梨を一つ投げた。


 そういえば私もその時間の記憶が曖昧だった。学校の廊下に咲いていた摩訶不思議なヒナゲシの花を摘んだのは確かその時間帯だったように思うけれど何故あそこにいたのだろう。

 前後のことはよく憶えていない。

 寺田くんと同じように一時的な記憶障害だろうか?

 だとすると何かショックな出来事があって防衛本能から脳みそが記憶を飛ばしたのだろうか?


 ねえサトシ、果たして飛んだ記憶はどこに行くのだろう。


 サトシは私の方を振り返ってニッと笑う。

「わからねえな。普通に考えたらそいつの脳みその奥底で眠っているとされるんだろうが、もしかしたらそのままそいつの頭から抜け出て海を越えて、どこか遠く海外の誰かの中に入ってたりするのかもしれねえ、と考えると面白い話だ。まあ寺田の記憶が入っちゃった奴は災難だけどな。」そう言うとサトシはまた梨を投げた。


 私も、確かにそれは災難だと言って笑い、梨を一つ川に投げた。



 他の誰のものでもない、自分の記憶、くだらないことも大切なこともまるっと全て、死ぬまで私の中で眠っていてほしいものだ、そんなことを思った。

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寺田くんの足が折れた話。 舞島由宇二 @yu-maijima

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