第11話「月夜に揺れる想いは儚くて」
「ふぅ……。ようやく落ち着ける」
ささやかな歓迎パーティーを終え、太郎はルームシェアをしている為、門限があるらしく食事が終わって片付けをするとすぐに帰って行った。
柳匱は少し皐月に話があると言ってリビングに残ったので、次郎も二階へ引き上げる事にした。
柳匱の使っていたという書斎は二十畳はある広々とした部屋だが、まるで図書館のように膨大な本が詰まった書棚で埋め尽くされているので、その全貌はよく分からない。
先ほど柳匱から部屋の事は説明されていたので、奥の方にある居室スペースへ移動した。
そこはミニキッチンやユーティリティー、そして重厚感のあるベッドが揃えられていた。
横には小さな冷蔵庫もある。
ベッドを利用するように言われてはいたが、何となく他人のベッドを使うのは気が引けるので、その下に寝具一式を広げてみた。
真っ新なシーツの上に仰向けに横たわる。
じわじわと疲労のようにものが血流に乗ってどこかへ流れていくような錯覚を覚える。
「静かなものだな……」
視界には見慣れぬ天井。
鼻腔を擽るのは紙とインクの匂い。
全てが夢のように感じる。
「俺は一体これまでどこでどう生活していたんだろうな……」
ふとそんな言葉が漏れる。
現在の自分の記憶は今日の午後十三時辺りからだと思う。
突然路上で目覚めた。
どうしてあのような場所に寝ていたのだろうか。
もしかして交通事故にでも遭って、それで記憶を無くしたのだろうか。
じっと自分の手を見つめてみる。
「どこも何ともないし、事故っていうのもちょっと考えられないんだよなぁ」
次郎は寝返りをうって考え起こしてみる。
不安なのは何もかもがわからない事だ。
一般的な常識は忘れてはいない。だが自分の関する記憶がない。
名前は消され、住んでいる場所や親や友人の記憶もない。
それどころか、その日食べたものも何かもわからない。
記憶を失う前、きっと何か食事をしたはずだろう。今まで食事を摂る事で保ってきた身体だ。
そう考えるとゾッとした。
思わず自分で自分の身体をギュっと抱きしめた。
………コンコン。
「はっ……」
その時だ。
書斎の扉が軽くノックされたのは。
「少しいいかな。次郎くん」
姿を現したのは柳匱だった。
「あっ、社長。別に構いませんよ」
「いや、寝てたかなと思ってね」
柳匱はゆっくりとした動作でベッドに腰掛けた。
「いえ。何か身体は疲れてるのに、中々寝付けなくて……。神経が高ぶっているのかな」
「まぁ、そうなるのも当然だね。こんな事があったからね。それよりベッド使わないのかな?」
「え、あぁ。何か自分のベッドに他人が寝るのってどうかなって思って」
何故かしどろもどろになる次郎を見て、柳匱は緩く笑んだ。
「別にいいのに。僕はそういうの気にしないよ。あ、君が気にするのか」
「はは。何か俺の気持ちの問題かな。それに布団で寝る方が楽だなって思ったんです」
それは本心だった。
もしかしたら記憶を失う前の自分は布団で寝ていたのかもしれない。
すると柳匱は少しだけ真面目な顔つきで次郎を真正面から捉えた。
「明日は君、僕と一緒に病院へ行こうね」
「え、俺別にどこも何ともないですよ」
意外な顔で次郎は柳匱を見た。
だが柳匱は怜悧な美貌に憂いを浮かべて頷いた。
「だけどもね、次郎くん。君には記憶がない。もしかしたら君は記憶を失う前に事故か何かに遭ったかもしれない。そういう懸念を拭う為にも一度しっかりした所で診てもらった方がいい。幸い、僕の知り合いの病院があってね。少々特殊な君の状態も相談に乗ってくれると思うんだ」
「そうですか……、まぁ、俺も一応考えたんですよ。事故か何かの可能性は。でも俺、保健とか効かないから……」
確かにそれは先ほどまで考えていた。
だが今の次郎は国民健康保険に加入していたのかさえわからない。
だから仮に受診しても、負担出来る持ち合わせがない。
すると柳匱は力強く頷いた。
「それは心配しなくていいよ。今回は僕が全て負担しよう。勿論返さなくても結構」
「いや、でもそれは……」
「いいのいいの。子供は黙って大人に甘えておきなさいって」
ケラケラ笑いながに柳匱は軽く言うのだが、次郎には彼の真意が分からない。
「どうして社長は今日会ったばかりの、ガキを……それも記憶がない厄介な奴にそこまでしてくれるんですか?」
「ん、気になる?」
長い睫毛に縁どられ、色素の抜けた瞳がこちらを窺がうように見る。
自然と次郎は頷いていた。
柳匱は妖艶に微笑む。
「……もう二度と自分に後悔はしたくないから…かな」
「えっ?」
その意味深な言葉は夜の闇に静かに溶けていった。
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