第5話「新しい名前」
「そこでだ。僕が君に新しい名前を与える事で今君が抱える問題の一つは解消するだろう。どうかな?」
「それはオレが消えなくてもいいって事ですか?」
「そうなるね。ただし……」
柳匱は貴族的な美貌を緩ませて余裕の笑みを浮かべる。だがその瞳は本心から笑ってはいなかった。
「僕たちはボランティアで動いているわけではない。ここは列記とした「会社」だ。僕の仕事は何等かの事情で名前を剥がされたしまった人や、運命を少しでも変えたいという人たちに名前を提供するという形で成り立っている。後はもうわかるよね?」
柳匱は親指と人差し指で丸い輪を作って見せた。
実に分かりやすい人だ。
「それはつまりタダじゃない。金が要るって事ですか」
「ご名答。賢い子は好きだよ」
「……見え透いた事を。で、一体いくらなんですか」
すると柳匱は指をパチンと鳴らした。
「皐月」
「はい。どうぞ~」
皐月はすぐにぬいぐるみのポシェットからピンク色の電卓を手渡した。
それを受け取った瞬間柳匱の指が物凄い速さでタイピングを繰り出す。
そしてものの数秒で電卓の液晶画面を彼へ向けた。
「まぁ、単純でそう凝らない名前なら安く見積もって相場はこの程度かな」
「………どれどれ。って、これゼロの数が凄くて読み上げるのも萎えるんですけど」
「そう?でもこれが一般的な名前のお値段だよ。まぁ、君もお困りのようだし、苗字は僕の「間宮」姓を特別にサービスしてあげるから、これは単純に下の名前のお値段だね。ちなみに同姓になっても別に君が僕の養子になったとか、同性婚をしたというわけじゃないから安心してね」
彼は絶句した。
「な……名前がこんなに高いなんて。つかこれってオレが勝手に考えた名前
名乗ればそれでいいんじゃないですか?」
「それはダメですよ~」
皐月が両手をぐっと握りしめて前へ出てきた。
「それでは先ほど名無しさんが私にくださった「あきばおんな」と同じ「あだ名」扱いになってしまうので、魂と馴染まず肉体に定着しないのです」
「てめぇ。何皐月にそんなあだ名付けてんだよっ!」
それを聞いた太郎が彼の襟を掴んで激高した。
「わわわわわっ、何お前そんな事覚えてんだよ。つかそれあだ名じゃねーし。暴言だよ」
「尚悪いわっ!」
「柳匱さん、私名無しさんに初めて「あだ名」をいただいたのですよ~」
皐月は嬉しそうに柳匱に報告をする。
「それは良かった。大切にするのだよ」
………な…何だよ。この二人。
常人には理解出来そうにない会話を聞いたような気がして、彼は引き攣った笑みを浮かべた。
「それでどうするの?」
「そりゃあ、こんな訳の分からない状態で消えたくなんかないし、そうするしかないってのは分かるよ。でもオレ金なんか持ってねーし」
ポケットの中は既に確認済だが、やはりいくら探ってみても財布はなく、金目になりそうな物は一切持っていなかった。
「ふ~ん。それは困ったねぇ」
柳匱も困ったものだとため息を吐いた。
その時、後ろに控えていた皐月がビシッと手を挙げた。
「どうかしたのかい。皐月」
「はいっ!私が名無しさんにお金をお貸しして差し上げます~」
「はぁっ?お前何言ってんたよ。この金額だぞ」
彼は思わず大声をあげて先ほどの電卓の画面を皐月に見せつける。
「はい。勿論存じてます。ですが名無しさんがお困りのようですから、それなら私が素敵なあだ名のお礼にと思いまして」
「全然素敵じねーし。大体さっきも暴言だって言ってっし……。それにそこまで言われるともう嫌味にしか聞こえねえよ」
「?」
皐月は不思議そうな顔で彼を見返している。
しかし柳匱はまだ難しそうな顔をしているようだ。
「うーん。でもねぇ………」
柳匱の反応に今まで黙っていた太郎も同感のように頷いている。
「俺は反対だ。どうせこいつ、皐月の金を踏み倒してトンずらこくに決まってる」
「なっ……」
「太郎さん、名無しさんはそんな事しませんよ~。ねぇ名無しさん」
「………あ…当たり前だ。誰がそんな道に背くような事……」
一瞬まさに太郎が指摘した考えが過ったが、すぐにぎこちなく否定した。
「そうだよね~。それは僕も心配かな。大切な妹の善意を裏切られる事になったらと思うと」
それを聞いた彼の肩が反応した。
「はぁ?今何て言った」
「そうだよね~」
「いや、もっと後だよ」
「大切な妹の………」
「それだっ!妹ぉぉぉ?あんたら兄妹だったのか」
彼は椅子を蹴倒しそうな勢いで二人を交互に見た。
二人とも確かに整った容姿をしているが、顔に共通性が見られなかった為、今の発言は大いに驚いた。
「ああ、そういえばまだ自己紹介がまだだったね。僕は「懐古庵」の社長で間宮柳匱。そして秘書の間宮皐月。エージェントの間宮太郎」
「全員間宮かよ。って事はこいつも兄弟なのか?」
明らかに太郎の容姿は日本人のものではない。
果たしてこれほど顔にバラつきのある兄弟がいるのだろうか。
すると柳匱は笑って否定する。
「ああ、いやいや太郎君は違うんだ。彼は君と同じ元名無しさんでね。少しでも支払いを軽くするために僕の苗字を流用してあげたんだ。君の場合も恐らくそうなるね」
恐る恐る隣の太郎を見ると、太郎はギロリと血走った目でこちらを睨んできた。
「ちなみに社員はこの二人だけだよ。まぁ実質僕一人さえいればいい仕事だからね。でも太郎くんは今の君のようにお金がなかったから、ここで働きながらそのお金を返済しているんだよ」
「ま……まじか。あんたもオレと同じだったのか」
思わずそう言うと、太郎が憎々し気に口を開く。
「俺はお前のように記憶までは失ってない。一緒にするな」
「太郎君はね、以前名前を奪われた事があるのだよ。そして存在が消えかかっていたところ皐月が見つけて保護したのさ」
「へぇ、俺とやっぱり一緒じゃん」
「全然違うわ」
柳匱は少し考えるような素振りをした後、指をパチンと鳴らした。
「君もここで働いた方がいいかもね」
「えっ?それは……」
「だってどうせ名前をつけて存在を定着させても君には記憶もない衣食住もないんだ。そんな状態の君が借金をすぐに返済出来るとは思えない」
「まぁ確かに」
それはそうだ。
ここで名前の件は解決しても、自分には帰る場所もないし、この先どうやって暮らしていけばいいのかすら分からないのだ。
柳匱は続ける。
「僕は他に不動産もいくつか持っていてね。部屋も用意してあげるし、当分の生活のサポートもしてあげよう。ここで働きながら借金を返済し、ついでに記憶を取り戻す治療と生活の基盤を作っていくといい」
「はぁ……いいんですか。見ず知らずのオレに」
柳匱は微笑んだ。
「まぁ皐月が君を気に入ったようだからね。それにせっかく名前を付けてもすぐに野たれ死にされてはせっかくの仕事が水の泡だ」
「ありがとうご……」
彼は嬉しさを噛み締めるようにお礼を口にしようとした時だった。
「あ……れ?」
急速に手足が冷たくなり、次第に感覚が薄れていくのを感じた。
両手を見ると、薄っすら向こう側が透けて見えていた。
「あ……あぁこれって」
「まずい。君が名前を剥がされてどのくらいの時間が経っているのかわからないが、名前を失った状態で動けるのは精々二週間程度なんだ。だからすぐに名前を入れよう。いいね」
彼はこくこくと頷くのが精いっぱいだった。
「皐月、すぐに懐古録名鑑をここに」
「はいっ!」
その声を聴きながら彼の意識は次第に遠くなっていった。
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