第4話「名前という呪術」

そこには文字通り、煌びやかな「上流階級」のパーティールームが広がっていた。

極彩色に輝くシャンデリア、そこから宝石を散りばめた天鵞絨の天幕が下がり、真紅の絨毯に広がっている。

部屋のサイドテーブルには様々なご馳走やフルーツ等が大皿に盛られていた。

その中央に白く長い髪の男性が優雅にワイングラスを傾けていた。


「柳匱さん、名無しさんを発見しましたので、お連れしました~」


皐月が嬉しそうに彼の手をブンブンと振り回す。


「お……おい、やめろって」


その予想外の手の柔らかさに焦って、彼はすぐにその手を離した。


「ふむふむ。いつもご苦労さまだね。皐月。ありがとう。それで君は……どういう経緯で名前を失ったのかな?」


グラスを持って、こちらを観察するように見つめてくる柳匱は更に顔を彼に近づける。

柳匱はとても女性的な整った顔立ちをしている。

年齢は二十代の後半くらいだろうか。もしかしたらもっと若いのかもしれない。


「いや……。それがわからなくて…。気付いたら…って感じで…って何だよ。顔近いって」


「いやはや。ふむふむ」


すると何を思ったのか、柳匱は手にしているワイングラスを彼の口元に近づけた。

甘い葡萄の香気が鼻先を掠める。


「飲むかね?」


「い……いや酒は」


「はははは。安心したまえ。これはただの葡萄ジュースさ。僕は下戸だ」


「…………ワイングラスに葡萄ジュースですか。一体何の意味があって…」


「雰囲気に酔いたいからだよ。名無しの少年」


「………………」


確かにそのグラスからは芳醇なワインの香りではなく、甘ったるい葡萄の香りがしていた。


「それでですね。この名無しさんは新しいお名前が欲しいのですよ」


「あぁ。そうだね。どうも記憶がないというファクターが気になるが、早いところ

手を打たないと彼の存在が消えてしまう」


「あの…、さっきから消えるって言ってますが、具体的にどいういう意味なんですか?オレってただの記憶喪失じゃないんですか?」


すると柳匱の色素の薄い瞳が陰り帯びた。


「文字通り「消える」んだよ。君はこの世に存在しなかった事になる。ただ、その記憶喪失の件に関しては僕の管轄外。それは別の要因からきたものじゃないかと思う」


「………っつ!それって名前が消えたから記憶もなくなったって事じゃないって事ですか?」


聞いた瞬間、胃の辺りが急速に冷えるのを感じた。


「う~ん。本当にそれに関しては僕もわからない。ただ、僕もこの生業

始めてから結構長いけど、名前を書き替えたり剥がしたりする際にそういった記憶障害を併発した例は聞いた事がないのだよ」


「…………」


柳匱は続ける。


「名前はね、一つの言霊であり呪術なのだよ。少年。人が誕生したての頃はまだ魂と肉体の結びつきが不安定な状態でね。名前というものはその魂と肉体とを繋ぐ接着剤のようなものなのさ」


「じゃあ、今のオレって赤ん坊のように魂と肉体が不安定って事なのか……」


「そう。それくらい名というものは大切なものなのだよ。しかしごく稀にその名

剥がされてしまう者もいる。今の君のようにね。名前が剥がされてしまうと今まで魂と肉体を繋げていた接着剤がなくなって、その存在を保てなくなる。ちなみに故人につける戒名はあちらの世界での存在を定着させる為に付けるんだよ」


柳匱の説明はどれも荒唐無稽に聞こえたが、今の自分の状況を見ると笑い話にもとても思えなかった。


「名前が魂と肉体を………。オレこのままじゃマジで消えるって……」


その呟きに柳匱はゆっくり頷く。


「うん。少なくとも今の君の状況はそんなところだろうね」


すると皐月が小声で彼に囁く。


「大丈夫ですよ。社長や私たちはお名前がなくなった状態の方をすぐに見分けらる特異体質なので、絶対に消えさせてしまうような事はありませんから」


「皐月、何かそれはあまり良い言い方じゃないね~。特異体質って……まぁいいか。それより君、何か名前を剥がされた時の事を覚えてないかい?」


「それが思い出そうとしても全く……。オレ、名前は勿論、住んでたところや家族も思い出せないし、年齢や職業もわからないんです。それにここがどこかも……」


「ここは地獄の一丁目なのですよ~」


「……笑えねぇよ」


皐月が呑気にそんな物騒なジョークを言う。


「こらこら。ここはちゃんと現代日本。そして場所は東京都内。ついでに言うと杉並区です」


「東京……杉並」


「あ、どこに住んでいたのか思い出せないんだったね」


柳匱も少し困ったように顎に手を当てる。


「でもまぁ、このまま名前がない状態が続くと君は消えてしまう事は確実だ」


その厳しい現実に彼は沈痛に頷いた。


 



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