第25話 西願院にて
緋色の空は徐々に漆黒に侵食されつつあった。熱をなくした風が若い麦畑を微かに揺らしている。
巡回警邏隊が策源地と指定した西願院に到着したのは夕刻を大きく過ぎた頃だった。
二丈ほどの幅の堀に囲まれた覚者門の宗院は堅牢な石壁を持っており、不殺を説く宗教の施設でありながらも城塞の気配を漂わせている。それは西願院が鷹乃家の庇護下にあり、有事の際には軍事施設として使用されることになっていることの証左だった。
石壁の内側には覚者像を祀る本堂、三百人は収容できる講堂、覚衆たちが生活する僧師房。その他に庫裡、馬屋、水屋、戦塔などが設けられていた。常時、五十名以上の覚衆たちが生活していることを差し引いても、大きな施設である。
准騎士たちは蛇馬を馬屋に繋ぎ、明日からの山砦探索に備えて馬車から荷を下ろしている。
まさかここまで早く着くとはな――舩坂は汗と埃で汚れた髪を掻き上げた。部下たちの顔には若干の疲労が見て取れたが、大きな問題はないようだった。
事実、行軍速度は兵の質と正比例する。
強い軍隊というのは即ち速い軍隊のことであり、速い軍隊というのは強い軍隊である。
敵陣を素早く強襲し、反撃される前に離脱する――それが可能な軍隊が弱いはずもない。
だが現実として、そこまで軍を練り上げるのは難しい。およそこの戦国の世で、それを成しているのは羅州の支配者である永浦氏の赤色騎馬兵団だけではないだろうかと舩坂は思う。
羅州の永浦氏は大規模騎馬部隊を編成し、その機動力で周辺の国々を圧倒している。だがそれは名馬名駒の産地である羅州だからこそ可能な話であり、他国が簡単に真似のできるような話ではないだろう。
鷹乃に於いても馬は蛇馬より貴重であり、全ての騎士が馬に乗れているわけではない。ましてや巡回警邏隊の場合、馬よりも積載能力が低い蛇馬を主装備としているため、長距離行軍に難があるのは事実だった。
だが今回は通常の移動とは異なっていた。
垂水城から離れ、人々の視線が途切れると、第三継嗣は巡回警邏隊の准騎士たちに鎧を脱ぐように命じた。そして脱いだ鎧を馬車に積み込ませ、准騎士たちは腰に刀剣を佩いただけの姿となって街道を進むこととなった。
頼りない様相に准騎士たちは抗議したが、第三継嗣はまるで耳を貸そうとはしなかった。そればかりか、どれだけ短時間で賀森まで到達するかの訓練を行うと宣言した。
巡回警邏隊は第三継嗣の号令に従って行軍速度を上げ、最低限の休息を取っただけで西願院まで移動を続けた。
そして通常であれば二日は掛かる行程を、過半日で到達するという記録を作った。強行軍ではあったが、第三継嗣が手配していた馬車や替馬のお陰で疲労は少なかった。
西願院に到着した准騎士たちは不満を零さなかった。警邏隊の業務の性格上、目的地に可能な限り早く到達することの意味を彼らは自然に理解している。
人の上に立つ男ってのはこういう奴なのか――舩坂は西願院の院主と会話する第三継嗣の背中を眺めながら舩坂は考えていた。そして自分の父親は間違えたのかもしれないと思い至り寂しくなった。あの内乱では多数の死者が出たが、その死にどれだけの意義があったのか――父が生きていれば尋ねてみたかった。
篝火の下、中庭では日雇い兵士の選別が始まっていた。
冬期に入って農作業のなくなった近隣の農民たちが雑兵としての仕事を求め、西願院に集まってきている。役務によって支払われる日当は冬場の農民たちにとって欠かせない資金源となっている。
さすがに食い詰め浪人はいないようだな――中庭に集まる者たちの身形から推測する。襤褸々々な服、重労働で腰が曲がってしまった者――多くは家族が同伴しており、採用者に支払われる支度金は、そのまま家族が持ち帰っているようだ。
今回は森の中での捜索活動になるため、荷物運びが主務となる。よって山歩きが得意で腕力のある者を選ぶように舩坂は甲野に命じてあった。
年齢、体格、経験、そして武器や鎧を持ち込んできているかどうか――それらによって俸給は厳格に定められているのだ。
戦闘に使えそうな奴は残ってねぇな――農民たちの中でも体力のある者は、在郷騎士の徒士として契約していることが多い。そういった連中は当然ながら西願院には来ていない。よって中庭にいるのは、若すぎて採用されなかったか、年を取りすぎて排除された者しかいないのが現状だった。
それでも十名ほどの男衆を甲野は選抜していた。
総じて若い男たちだった――舩坂は苦々しく思う。
荷運びが主とはいえ、彼らはまともな訓練も受けずに戦場に臨むことになる。それがどれだけ危険なことなのか、想像もしていないのだろう。いや、それどころか、上手くいけば士分取り立てや、戦利品の分前が貰えるかもと期待している。一時は隷民にまで身を落としていた舩坂には容易に推測できた。
それで跡継ぎに死なれたとなっては、農民の家族から不満の声も上がるというものだ。だから舩坂は甲野に向けて、雇うならば次男坊以降で頼むとも声を掛けていた。
在郷騎士の江成が合流するのは明朝って話だったな――江成は匪賊討伐に遅参した男だ。どこまで協力してくれるかは不明だ。いずれにせよ、今回の山砦捜索には巡回警邏隊、在郷騎士団、日雇い雑兵――総勢で三百名以上が参加することになっている。
老境の匪賊の言葉を信じるならば賊は五十名もいないはず――これだけの人数であれば、余裕を持って押し切れるはずだ。いつもどおりの治安維持任務だ。緊張することもない。
「舩坂副長、第三継嗣がお呼びだ」
女の声に振り返る。鎧姿の里海は兜まで被っていた。
「……面倒だな、その格好は」
本来、西願院は女人の宿泊を禁じているとのことだった。女人がいると覚衆たちの修行の妨げになるらしい。
「仕方あるまい。宗院の規則には従わねばなるまい」
世の中の半分は女なのに難儀なことだ。むしろ女と寝た後の方が悟りに近い気もするけどな――舩坂は神を信じていない。覚者の教えになるほどと思うことはあっても、覚者になることを目指そうとしたこともない。
「女ってのは生きてくのも大変だな」
「別に女に限った話ではあるまい」
「で、第三継嗣が俺に何の用だ? 日雇いの選定は順調、明朝には予定通り出立できる。――今夜は早めに皆を休ませてやりたいんだがな」
女は無理でも酒くらいは都合してやりたい。そのくらいのお目溢しがあってもいいはずだ。なにせ、丸一日蛇馬に揺られた結果、いまだに地面がふわふわと揺れている気がしている。
里海が近くに誰もいないことを確認していた。おやと思う間もなく、里海が舩坂の耳元に顔を寄せてきた。
「捜索に在郷騎士は参加しない」
喉がなった。
「賊には巡回警邏隊だけで当たることになる」
奸雄ノ始末 山崎十一 @HHHXXX
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