第24話 遠征前の一時


 黒川綾女は夜明けまで一刻という時間に第三継嗣の部屋の扉を叩いた。

 女として第三継嗣に呼ばれたわけではない――部屋付き侍女としての仕事をしにきたのだ。

 第三継嗣は今日、垂水城を出立して古鐘との国境にある森へと向かう。以前に討ち漏らした匪賊の残党を始末するという話だ。

 部屋の外から呼びかけると第三継嗣は既に目覚めていたようで、入れと声が掛かったのは直ぐだった。ひょっとしたら徹夜していたのかもしれない。

 第三継嗣は既に鎧下姿になっていた。綾女は急いで甲冑置きの鎧を部位ごとに外していった。

 薄い鎖帷子を頭から被り、黒色の帯革で締めていく。それから革長靴を金属製の脛当てで覆い、腰甲を帯革に接続する。胸甲を装着して革手袋と手甲を嵌めると出立の準備は終わった。

 今度は怪我しなければいいけど――第三継嗣の肩の怪我は既に消えていたが不安は残る。

 この若者が武人だと理解しているが、それでも十五歳の肉体が大人に勝つのは難しいだろうと思えた。多少の技の巧拙など、力の優劣に比べたら小さいものだと綾女は店の若衆から聞いたことがあった。

 でも、きっとあの武芸師範が守ってくれるに違いないよね――鎧の締め金具を確認する手に自然と力が籠もる。

「――戻るまでに文机の本を写しておいて欲しい」

 見れば文机の上には十冊ほどの本が重ねられていた。

「遠征はどれくらい掛かるのですか?」

「わからない。賊の砦が見つかればすぐに戻る。だが長くても十日後には戻る」

「月内にはお戻りになられるのですね」

「そのつもりだ」

 写本はできて二冊かな――自分の分も複写しなければならないし、あまり遅くまで作業をしていると寿々音に迷惑を掛けることになる。

「承りました。可能な限りという話になりますが、よろしいでしょうか」

「構わない。――では行く」

「城門まで御見送りいたします」



 城門近くの待機場には三十名ほどの巡回警邏隊准騎士たちが集まっていた。 

 四十頭ほどの蛇馬と六輌の馬車――そのうちの一輌は移動裁判所幹事の鷹乃栄ノ常様が乗車する豪華なものだ。残りの馬車は巡回警邏隊の武具と寝具、食料などを積み込んでいた。詰め込めば四輌で乗りそうだなと綾女は思った――如何にも雑な男衆の仕事だ。商家の出としては納得いかないものがある。

 通常であれば策源地の西願院まで道中で一泊――だが第三継嗣は本日の夜半までには現地に到着するつもりだと言っていた。

 見送りにきたのはいいが、自分が手伝えることはすべて終わってしまった――手持ち無沙汰になった綾女はそれとはなしに周囲の様子を観察し始めた。

 目録を眺めて搬入資材を確認する者、蛇馬の鞍を調整する者――准騎士たちは忙しなく動いているが、驚く程静かだ。その姿は商家だった実家の朝の光景を綾女に思いださせた。

 住み込みの雇人たちは日の出前に起床すると店を箒で掃き清め、固く絞った雑巾で磨き上げる。それから顧客たちが手に取りやすいように商品棚を整理する。それは毎朝の光景であり、同時に顧客たちには決して見せない姿だった。そしてその姿にこそ、商人の矜持があると綾女は父から教えられていた。

 だからこそ、民衆から嫌われながらも、任務に対しては真摯な姿を崩さない巡回警邏隊には好感を抱いた。

 それにしても巡回警邏隊の鎧姿は厳ついですねぇ――罪人たちを裁く仕事とはいえ、死神めいた兜は狙い過ぎではないだろうかと綾女は思った。武装領主の定めた法を人々に意識させるためには適切な手段だと推測できたが、断罪鎌の意匠と相俟って人々に罪悪を齎す存在にも見えてしまう。綾女からすれば、警邏隊は若干やり過ぎなのだ。 

 ふいに場にそぐわない童女の笑い声が聞こえてきた――綾女が声の方向へ視線をやると、第三継嗣が職人集団と話しているのが見えた。

 知人かな――第三継嗣は眼帯をした若い男と言葉を交わしていた。職人徽章から眼帯男が棟梁なのだろう。随分と若い棟梁だ。そして眼帯男の左足に抱きつくようにして童女が立っていた。顔立ちから男と童女は兄妹なのだろうと綾女は推測した。

 眼帯の男が差し出した書類に第三継嗣が署名している。それが終わると職人たちは警邏隊の馬車に布に包まれた荷物を積み込み始めた。

 あの形状は棒状兵器かな――であれば、あの眼帯の男は武具職人だと綾女は予想した。

 城の武具拵え以外から、装備品を購入するとは珍しい――そう考えた時だった。綾女は信じられない光景を目撃した。

 第三継嗣が膝を屈めて童女の頭を撫でたのだ。

 嘘でしょ――思わず息が詰まる。

 童女は照れたような笑顔を浮かべていた。そして第三継嗣も無警戒な微笑を浮かべていた。

 こんな顔をするんだ――頭を玄翁で殴られたかと思うほどの衝撃だった。

 少なくとも自分が第三継嗣の侍女となってから一度も見たことのない表情だった。そして綾女は瞬時に理解してしまった――垂水城内は第三継嗣が気を許せる場所ではないのだと。

 写本を頼まれたり、食事の下がりと貰えるようになったとしても、特別に親しくなったわけではないのだと。

 

 巡回警邏隊が出立したのはそれから四半刻後だった。何とも言えない気持ちを抱いたまま、綾女は誰もいなくなった待機場を眺め続けていた。






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