第23話 興津にて

 沖合に幾艘もの大型商船の帆が風に張られているのが見える。古鐘領興津は日に百艘の商用大船が行き交うと謳われる東大倭ひがしやまと最大の港街である。

 遠浅の入江を整備したのは三代前の領主であったが、波殺しと呼ばれる石塁を築き、灯台を設置したのは現領主の古鐘巌威より興津を預かった古鐘瑠璃であった。

 古鐘瑠璃は私財を注ぎ込んで港を改良すると共に興津商人たちと積極的に交流を持った。若い女統治者の派遣に訝しげな気配を漂わせていた興津商人たちだったが、瑠璃の予知能力によって海難事故が激減するという事実を前にすれば、元々利に聡い商人たちは若輩女性の統治を抵抗なく受け入れた。

 そして古鐘の姫巫女と商人たちとの交流が密になると興津の港は益々発展し、今では大倭の中でも五指に数えられる良港とまで成長していた。

 美しい港だ――古鐘瑠璃の館は港を見下ろす高台に構えられている。控えの間の開け放たれた窓から港を眺め、鷹乃雅守たかのまさもりは思った。

 港では蟻ほどの小ささの人間が忙しなく行き交っている。大道は街路樹によって整備され、街中まで延びている運搬用水路には小舟が浮いている。興津という街自体が、まるで巨大な生物であるかのように雅守には思えた。

 雅守の古巣――垂水城にも港はあるが、海流の都合で常に波が荒く、大型船の出入りが難しい。貿易港としては脆弱であり、基本的には漁港なのだ。だから初めて興津の港を目にした雅守は古鐘との街道を整備することを本国に打診した。それほどに興津という港に価値を感じたのだった。

 しかし、話は簡単には進まなかった。

 難所難路でなければ、古鐘との間に万が一があった場合に対応できないとの反対意見が多かったのだ。家臣団の説得を諦めた雅守は、垂水の港を整備するより少額の投資で済むと言って父と兄を口説き落とした。このまま古鐘だけが貿易の旨味を味わっていては、いずれ国が立ち行かなくなる。当時は真実、心の底から出た言葉だった。

 そしてその結果、鷹乃の物流は目に見えて改善した。古鐘を経由して遠国からの商品が輸入されるようになり、珍しい食材や良質の道具が安価に手に入るようになった。かつて警戒心が足りないと雅守を非難していた声は小さくなり、代わりにその見識を褒め称える言葉が増えた――と、かつての子飼いから知らされている。

 貿易が生み出している富が、どれほど恐ろしいものか理解できない無能は多い――あれだけの利益を誘導してやったというのに、父と兄も理解できているかはわからない――であれば、鷹乃はいずれ古鐘に飲み込まれるだろう。雅守はそう考えていた。

 だから今は無理に後継者の立場にいる必要はない。むしろ古鐘にとって、どれだけの利用価値が自分にあるのかを証明することが大事だ。そのためには古鐘の一族と密接な関係を築かねばならない。それが雅守の処世術であり、後継者候補としての戦略だった。

 だが古鐘の姫巫女――古鐘瑠璃は容易ならざる女だ。彼女は異能を使って他人の真意を見抜くことができる。

 若干の寒気に服の襟首を整え直す。姫巫女に野心を見破られるのは確実だ。しかし逃げていては勝負にならない。読ませた上で、古鐘に利があると姫巫女に思わせる必要がある。逆説的ではあるが、味方をする価値があると姫巫女が考えてくれれば、計画は成功すると言っても過言ではない。

 すべてはあの女に掛かっている――女という単語が雅守に同行者の存在を思い出させた。

「寒くはないか、紫鱗」

 雅守は愛人――火野屋紫麟ひのや しりんに声を掛けた。火野屋は鷹乃が御用達にしている古鐘領の大店であり、紫鱗は火野屋の跡取り娘だ。

「ご心配なさらずに。着込んで参りました」

 紫鱗が頭を傾げると金色の髪が波のように揺れた――彼女には波斯人ペルジアの血が混じっている。それは貿易港であり、混血の多い興津でも珍しいことなのだが、目鼻立ちのしっかりとした紫鱗には、その髪の色がよく似合っていると雅守は思っていた。

「雅守様、温石袋を使いますか? 予備がございますよ」

 貰おうかと雅守が答えると紫鱗は懐中から温石を入れた絹の小袋を取り出した。雅守は受け取ると匂いを嗅いだ。焚きしめられた香の向こうに紫鱗の体臭を感じた。

「もう――」

 恥ずかしげに視線を逸らす紫鱗。雅守は小さく笑みを浮かべ、己の懐中に温石袋を抱えた。

 抑えておけば便利な女だなと考えて口説いてみたが、彼女を手に入れられたのは僥倖だった――雅守はにやついた。およそ、女には不自由したことはないが、傍に置いておく価値のある女は滅多にいない。

 しばらくするとしずしずとした足音と共に姫巫女の使い番が控えの間に現れた。やれやれ、ようやく先客が片付いたか――雅守は立ち上がり、紫鱗に手を差し伸べた。



「お待たせしましたね。御顔を御上げください」

「――鷹乃雅守、参上いたしました」

 命じられるまま顔を上げると、雅守の眼前には古鐘瑠璃が座っていた。艶やかな唐紅の衣、薄い面布。そして上質な薫香――何度も面会しているが、その都度、貴人とはかくやと思い知らされる。 

「先客の卜占に時間が掛かってしまいました。お許しください」

「卜占の……。ご多忙の中にお邪魔を――何卒、お許しください」

「よいのです、鷹乃殿に責はございませんよ。――それにしても久しいですね、紫麟しりん。月見の席以来かしら」

「はい、姫殿下の仰るとおりです。西国より珍しい菓子を取り寄せました。まずは姫殿下への献上をお許しください」

 それは楽しみですねと姫巫女は答えた。それから手を叩いて茶の用意を整えるようにと侍女たちに命じた。

「では――鷹乃殿、本日は何用でしょうか?」

 雅守は深々と頭を下げてから話を切り出した。

「――国元から報せがありました。近々、鷹乃は兵を動かします。賀森に潜む匪賊どもを掃除するとのこと」

 姫巫女には素直に事実を伝えることが肝要だと雅守は考えていた。

「なるほど、匪賊の掃討ですか。――蒼切あおきりに報告は?」

「済ませてあります」

 古鐘の本城は蒼切にある。

「ならば構いません。――元より妾の関与する話ではないでしょう」

 少し機嫌が悪いのだろうか――実のところ、古鐘瑠璃の気性は安定しているとは言い難い。

 神憑りを行うため一月もの間、引き篭もったかと思えば、街中の商人たちとの会合に飛び入りで参加するなど掴み所がないのだ。雅守は慎重に言葉をつなげた。

「鷹乃では賊掃討に姫殿下の御力を拝借しようという話が出たようですが……」

「気位の高い弦正公が許すとは思えませんね。それに私の力を借りたい言い出したのは貴方の弟御でしょう?」

「いやはや、そこまでお察しでしたか」

 これだから、この女は怖い――雅守は軽く頭を下げ、恭順の意を示した。

「賀森でお会いした時、弟御の顔に書いてありましたよ。――あの女の異能は真か否か知りたいと」

「これはとんだ失礼を――」

「構いません。貴方のお気に入りだけあって面白い御仁でした」

「……我が弟も隅には置けぬようですな」

 弟は生真面目で小心だ――古鐘瑠璃はそこを気に入る女だったかと意外に思う。

「――ええ、本当に。殺してしまえば良かったと思うくらいです」

 どきり――とした。

「……我が弟に失礼があったようですな。――代わって御詫びを申し上げます」

「謝罪されても付けられた傷は消えないでしょう」

 瑠璃の妹、初芽の首元に弟の師範が短刀を突きつけたとは聞いていた。解釈を間違えていたか――胃の中に氷が現れた。

「申し訳ございませぬ……」

 頭を垂れて謝罪する。だが、それ以上は言えない。言質を取られてしまえば、何を要求されるかわからない。

「可愛そうに、あの子の首筋にはよく見ないとわからないくらいの傷がついてしまったのですよ。本当に蚊に刺されたようなものですけど」

 そう言って姫巫女はにぃと笑った。

「……まことに忝なく」

 誂われたと理解した。猫に甚振られる鼠だな――雅守は臍を噛んだ。

「それで匪賊討伐は貴方の弟御が指揮されるのかしら」

「そのように聞いております」

 ふむ――顔の前で指を組み、姫巫女は何か思考しているようだった。

「では妹の恩人に一言だけ。――あの森の奥には立ち入らぬ方が良いと私が言っていたと」

「殿下より賜りし御言葉、必ずや弟に伝達いたします……が、真意を尋ねることをお許し頂けますか」 

「あの森――奥地は瘴気に満ちていますから」

「瘴気ですか……」

 瘴気とは人に様々な病を齎す毒気であり、鬼や魔の生息地に漂うものと言われている。

「信じられませぬか?」

「い、いえ! 姫殿下を疑うことなぞありませぬ。ですが、私は異能を持ち合わせぬ身にて……」

 あの森の難所を整備したのは自分の差配だ。しかし工人たちが瘴気を吸ったという報告は受けていない。

「理解できないということですか?」

「何度も往来しておりますが、森の奥にまで分け入った経験はなく……」

「そうでしょうね。あそこは熱香の巫女たちが構築した人払いの結界がありますから、余程の目的がなければ自然と脚が遠のくはずです」

「……そこまでしているのですか」

 森の奥に何があるというのだ――知りたくなった。

「迂闊なことは考えぬ方がいいと思いますよ。――憑かれても祓えないでしょう?」

「――は」

 悪霊がいると言うのか――霊能力のない雅守には理解に遠い。

「……通行人が取り憑かれるということはないのですか?」

 姫巫女の返答までに若干の時間があった。

「鷹乃殿、大倭の序列第二位の神舎が、この地に建立されたのには、それなりの意味があるということです」

 雅守は深く頭を下げた――瑠璃の口調は、それ以上の説明を拒絶していた。

「鷹乃雅守、我が名に掛けて、必ずや弟に伝達いたします」

 そうしてください――そう言って姫巫女は微笑んだ。それが会談の終わりを告げていた。

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