第12話

 車を降り、海岸に続く坂道を下っていく。夏休みだというのに、予想に反して、人は全然いなかった。

 あおいは波打ち際まで下りて、足元に寄せる海水をじっと見下ろしている。行幸はアスファルトで舗装された斜面に腰掛け、その背中をただ眺めていた。

 青いなあ。海も、空も、全部。

 あおいは、つま先の数センチ先には水がくるところまで海に近付いている癖に、決してその足を水に入れはしないのだ。

 そうだね。若いって冒険だけど、同時に、臆病だ。

 分かってた。僕たちはもう、寄りかかり合うことでしか生きていけない。

 互いの存在は重荷かもしれない。重さに耐えかねて、きっと、壊し合ってしまうんだろう。みしみしと骨にヒビが入って、そのうち、骨折するように。

 あおいが戻ってきた。行幸の傍らで歩を止めたあおいは、アスファルトの斜面をうっかり滑り落ちそうになって、足を踏ん張った。でも、行幸はあおいが隣に来たことに気づいてないみたいに、ずっと前を見ていた。ただ海を見ていた。

「みゆき!全然下りてこないしさあ。……なんでこっち見ないんだよ!……なあ。一人でどっか、遠くに行くなよ……あーもう」

返事より、顔を向けるより先に、腕を掴まれていた。一瞬のうちにいろんなものが目に飛び込んだ。水飛沫の光、よろけて揺れ動いた自分の髪、それとあおいの髪。

 あおいの小さな唇は、行幸の薄い唇に重ねられた。

 でもそれも、行幸が目を見開くまでも持たない、ほんの一瞬。

 ほんの子供の、愛情表現かもしれない。でも、こんな優しいキスをされたこと、行幸にはなかった。10歳の少年の精一杯が、あまりにいじらしくて、涙が出そうになった。

 もう海も空も青くなかった。全部オレンジで染まっていた。燃えるような、でも輝くような。あー、なんか、ジュースとか、ゼリーとか、ちょっと高いメロンとか。そういうのみたいだなって、なぜかそんな間抜けなことを、思った。


 二人はまた車に乗っている。やっぱり、多くは言葉を交わさない二人だ。

 このまま、何も言わずに、この道を曲がらないで、ずっとずっと遠くまで走ろうか。僕のことも、あおいのことも、誰も知らない場所まで――。またそんな考えが過った。ずっと進行方向だけを見ていたあおいが、ちらりとこちらを向いた気がした。行幸は、来た道を戻って、ハンドルを切った。海のある街には、もう夜の闇がおり始めていた。

 滅多に見かけなかった対向車がきて、そのライトの眩しさに、一瞬視界が遮られた。何ていうんだっけ、こういうの。ああ。思い出した。

 眩惑。

 教本には平仮名で書かれていた言葉だ。ふと思い立って、どんな字なのだろうと後から調べた記憶がある。

 こういう時は、斜め下を見たらいい。目がなおって、また前を見る。


 二人が海に行った翌日から、あおいは姿を見せなくなった。

 ――やっぱりちょっと、広すぎるな、この部屋。

 一人でいると、自分が立てる物音が全部、無駄に広い学生アパートの一室に響く。

 簡素なすのこベッドに寄り掛かり、上体を横たわらせる。外し忘れていた腕時計が耳のすぐ下になった。秒針の音が、ものすごく大きく耳をつんざく。少し頭を起こして、その時計をちらと見る。ああ、もうこんな時間か。腹も減らないというか、物を食べるも億劫で、この数日ほとんど何も食べていなかったことに気付いた。――いい加減、何か食べるか。駅前のコンビニにでも行けばいいか……。小銭をじゃらじゃらとポケットに押し込み、アパートを出ると、いつもの園芸クラブのおばちゃんに鉢合わせた。

 なんだかこの人にも、久し振りに会った気がする。――数日間家から一歩も出てなかったんだ、それもそうか。

「あら、なんだか久し振りね」

「……どうも」

「ねえ、聞いた?」

また、ねえ、聞いた?話である。これほどまでにご近所のどうでもいい噂話を収集できるおばちゃんたちの情報網には逆に尊敬の念すら覚える。

「**さんち」

「え、何て?」

「ほら、あなたのアパートの辺でもよくウロウロしてたじゃない、あの、男の子みたいなかっこして、いつもぶかぶかの服を着てた、」

それって。行幸はあおいの苗字すら知らなかったことに今更思い当たり、頭をかーんと叩かれた気分になる。

「あのうち、一人親で、あの子もあんな感じだったでしょう?親子ごとどこかに引っ越したのか、あの子だけでも親戚の家なり施設に預けられたのか、それはよくわからないのだけれど、とにかく数日前から家ももぬけの殻なのよ。……こんなご時世よ。よく見かける子だったし、あたしたちも、もうちょっと気を付けてみてあげればよかったのかしらね」

なんだよ、何を、べらべらと……。

 ああ。なんだ。私、あおいのこと、何にも知らなかったじゃん。

「あら、何、どうしたの」

おばちゃんの声が遠くに聞こえる。――知らぬ間に、行幸は涙を流していたようだ。

 ねえ。きみはきっと、僕の半分くらいの時間しか、生きていないでしょう。きみが今までの10年間で失ったもの、手に入れられなかったもの、それを今からの10年間で、かき集めなよ。それで、きみが今の僕と同じくらいの歳になった時、――またどこかで会うような気がするんだ、僕らは。でもきっと、お互い気付かないだろうね。きみは僕のことなんて忘れているだろうし、僕はきみがあまりに変わっていて、きみだってわからないだろう。僕は僕で、これからの10年でもう少し、強くなろうと思う。きみを受け止められなかったことの後悔はきっと僕にずっとついて回る。今度は、誰かの気持ちをちゃんと受け止められるように、その前にまず、自分の気持ちを、ちゃんと自分で向き合って、受け入れてあげられるようにさ。ねえ、だから一秒でも早くさ。

 僕のことなんて忘れなよ。

「いえ、なんでも。それじゃ、ご苦労様です」

答えて、おばちゃんに背を向けた。新作スイーツが出ていたらいいな。シュークリームでも、ロールケーキでも。

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青の眩惑 長命寺櫻華 @cherry_39mochi

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